「游歴雑記」(釈敬順)の中の記。
此の釜屋どもの庭中に悉く井あり。化粧側の高さは9尺、又は8尺、低きというも5尺より低きはなし。この側の上より清泉吹き溢れ滴り流れる。此の土地の家々の井みなかくの如くというにあらず。釜屋のみに限ってかかる名水あり。依って釜屋の井戸とて名高し、葢し、長流の川添は水の湧出するものにや

 川口は浦和水脈という地下水脈の豊富に集中する地域でそのため各地にこのような 「吹き井戸」 があった。大正12年、ユニオンビールが川口に進出したのも、この水によったものと考えられようが、この会社の進出がやがて次第にこの吹き井戸の水勢を弱めていったのは皮肉である。写真は江戸名所図絵に描かれた 「鍋屋の井」 である。

川口宿と周辺の町並み(明治20年頃)

 荒川端から元郷村までを宿域とし、長さ13町57間(約1,522m)の道筋に家並みが建ち、御成道の西側の裏町、横小路にも家並みが広がっていました。
 川口宿内の日光御成道は、現在の本一通りにあたり、今も通りの両側には当時を偲ばせる古い商店などがあります。

 日光御成道は、中世の鎌倉街道中道をもとにして、徳川将軍が日光社参を行なうための専用道として整備されました。本郷追分で中山道と分かれ、岩淵、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻の5宿を経て、幸手追分で日光道中に合流する12里余(約48㎞)の道です。
 日光社参は、徳川将軍が日光山に赴き、東昭大権現(家康)、大猶院(家光)といった先祖の霊廟を詣でる行事です。社参は元和3年(1617)2代秀忠から始まり、天保14年(1843)12代家慶まで17回行なわれており、その中でも秀忠が4回、家光が9回を数えます。社参が川口宿を通ったことが分かっているのは6回で、錫杖寺が御休所として使われました。
 川口宿は、本郷追分から2つ目の宿場です。宿の機能には、運輸・通信・宿泊などがあり、最も重要なのは、公用で通行する貨客に対して人馬を提供し、これを輸送することでした。日光御成道の宿駅の役割としては、川口宿は荒川を挟んだ1つ目の宿である岩淵宿との合宿になっていました。合宿とは、2つの宿で1宿分の業務を行う宿のことで、半月ごとに業務を交替で行いました。
 「日光御成道宿村大概帳」(天保14年(1843))によると、当時の川口宿の人口は1,406人、家数が295軒で、この内、本陣・脇本陣、旅籠、諸商店などがあり、また裏町には鋳物を生業とするものが10数名いると記されています。

日光御成道と川口宿説明

鍋屋の井説明プレート

川口宿絵図碑