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東海道   (石部~草津


平成29年10月2日(月)    ☁/☂    石部~草津    16.0㎞
昨日は水口で宿泊したため、早朝に近江鉄道本線に乗り、2駅先の貴生川駅でJR草津線に乗り換えて、午前7時に甲西駅へ降り立った。 それにしても天気予報とは違って朝から曇天であり、今にも降りそうな中、家棟川橋から出発である。

甲西駅 西照寺 松尾神社・南照寺 うつくしまつ自生地
早朝の甲西駅は乗降客もなく、駅前は車も人もない。
曇天の空は、いつ雨が降ってきてもおかしくない様子である。今日までは晴天との天気予報ではあったが、一応の雨具は用意してあるので、先に進むこととした。
家棟川橋を渡って間もなく、左手筋を入ると浄土宗の平松山西照寺がある。
西照寺は、天文6年(1537)応誉明感の開基であり、本尊の阿弥陀如来立像は甲西町指定文化財である。
境内には、俳句を通じてうつくし松を紹介した奥村亜渓・志宇の句碑や芭蕉句碑がある。
西照寺の南西山側に松尾神社と天台宗の美松山南照寺が隣接している。
南照寺は、桓武天皇延暦24年(805)宗祖伝教大師が美松山麓に草堂を建立したのが開基である。その後、文徳天皇の仁寿3年(853)領主藤原頼平が山城の国より松尾明神を同所に勧請し南照寺はその神宮寺となった。
境内には、芭蕉句碑や天満大自在天神などの境内社がある。
街道に戻って進むと、左手の 「みよし酒店」 脇の筋に 「天然記念物うつくしまつ自生地」 の道標がある。
うつくしまつ自生地は、ここから1㎞程先の標高227mの美松山(びしょうざん)の中腹にあり、自生するアカマツの変種である。

浄休寺 旧平松村 高木陣屋跡 愍念寺
みよし酒店の斜向かいに、真宗大谷派の松香山浄休寺がある。
浄休寺は、天正元年(1573)俊哲が中興し、元和5年(1619)現在地に移転したというが、近くに居た住人によると、現在、無住寺となっており、法事がある時のみ門が開けられるという。
旧平松村の集落には、旧家も点在しており、わずかに旧街道の面影を残している。 左手の空地の前に高木陣屋跡がある。
元禄11年(1698)道中奉行に任命された高木伊勢守が、元禄12年(1699)に平松を領するようになった。その後、文化年間(1804-17)に広壮な二階建てに陣屋を建てたが、明治維新後、個人の所有となり建物が取り払われた。しかし、陣屋の門は、その後所有者が転々とするが、現在は、三雲の郷内にあるレストラン入口の門として再移築されて、当時の面影を残している。(湖南市観光協会)
どんどん進んで行くと、右手に真宗大谷派の平等山愍念寺がある。
愍念寺は、もと天台宗の極楽寺と称したが、文亀元年(1501)大澤坊教西が、本願寺実如に帰依し、浄土真宗に改宗して愍念寺と改めた。
本堂は、江戸時代中期の一般末寺の素朴で簡素に構成された外陣がそのまま残り、その頃の建立と推定され湖南市指定文化財に指定されている。

光林寺 養林寺 題目碑 上葦穂神社
続いて右手に浄土真宗本願寺派の紫雲山光林寺がある。
光林寺は建長4年(1252)青木民部の開基であり、もと天台宗であったが、文明9年(1477)蓮西により浄土真宗に改宗した。境内には、奥村志宇の句碑があるが、達筆で読めない。また、街道に面した山門の向かいには、八嶋寺地蔵堂と刻まれた道標がある。
光林寺の西側に隣接して浄土宗の白雲山専称院養林寺がある。
養林寺は、正暦2年(991)天台宗の僧侶心晃の開基と云われ、応仁2年(1468)西阿弥法師が再興して浄土宗となり白雲山専称院養林寺と号した。本尊は木造阿弥陀如来立像で、平安時代末期の作と推定され、甲西町指定文化財に指定されている。
街道に戻って進むと、変則十字路の左手に南無妙法蓮華経題目碑が建っている。 変則十字路の左手筋に上葦穂神社の社標と常夜燈が建っている。この筋を300m程入って広野川を渡ったところに社殿がある。
上葦穂神社は、孝徳天皇の白雉元年(650)2月に阿星嶽より五色の御旗が降り祀られたのが創祀と伝えられ、天智天皇3年(664)に社殿を創建し、白雉神社と称していた。その後、明治44年(1911)に上葦穂神社と改称している。

道祖神 石部宿東見附跡 吉姫神社 旧家
先に進んで落合川に架かる昭和38年(1963)5月竣工の落合川橋を渡り、石部東信号交差点を過ぎると左手に道祖神が祀られている。 道祖神の直ぐ先左手に石部宿の東見附跡説明板がある。
東の見附跡は、目川屋より約30m東に行ったあたりで、道路の中央付近まではみ出していた幅3mばかり、高さ2m程度の台場であり、石部宿場の両入口にあった。枡形城門の俗称で番兵が通行人を見張るところから 「見附」 と云われた。石部宿には東西2ヶ所に設けられていた。
東見附跡を過ぎると、左手に吉姫神社がある。吉姫神社の創祀年代は不詳であり、もとは現在の御旅所のある字上田に鎮座していたが、明応年間(1491-1502)の兵火により焼失し、天文3年(1534)に現在地に遷座した。江戸時代には社号を上田大明神としており、明治元年(1868)改称して吉姫神社となった。
境内には、天満宮・和田津見神社・世継神社の境内社がある。
街道に戻ると、右手に虫篭窓付で連子格子の石部宿の面影を感じさせる旧家がある。

地蔵堂 西福寺 石部宿町並み 蓮乗寺
旧家の隣の民家脇に西を向いた地蔵堂があり、一体の地蔵尊が祀られている。
ここで遂に雨が降り出し、ザックにカバーを掛け、傘を差して進むこととなった。
先に進むと左手段上に、真宗大谷派の清水山西福寺がある。
西福寺は、明応7年(1498)浄斎の開基であり、本尊は阿弥陀如来像である。
参道階段の脇に地蔵堂があり、境内には御釜を利用した水盤がある。
街道に戻ると石部宿の面影を残す町並みが続いている。
石部宿は、「京立ち石部泊まり」 と言われ、京都を旅立って最初に東海道で宿泊するのが石部宿であった。
最盛期には、216軒の商家や62軒の旅籠が軒を連ねており、伊勢路への街道として多くの旅人が往来していたという。
先に進み変則十字路を左に入ると、真宗大谷派の上田山蓮乗寺がある。
蓮乗寺は、弘仁年間(810-24)嵯峨天皇の願いにより善生上人が天台宗延暦寺派の上田山蓮浄寺を開基し、元和5年(1619)了達上人が茶臼山吉比女の地から鵜目ヶ澤十禅寺の地に御廟を遷し、真宗に改宗した。境内には、勅願所上田山蓮浄寺碑と勅願所石碑がある。

高札場跡 問屋場跡 石部宿驛 石部宿本陣跡
石部中央交差点の左角に高札場跡がある。
この角地は小公園になっており、東屋が設置され、高札場跡・石部城跡・お半長右衛門などの説明板や、壁面に歌川広重画などが掲載されている。
石部中央交差点を渡ると、左角に問屋場跡・常盤館跡の説明が建っている。 先に進むと左手に石部宿驛の看板が下がる御休み処がある。
建物前には、東海道道標 「←水口宿三里半 草津宿三里→」 が建っている。
直ぐ先左手に石部宿本陣跡がある。
ここは石部宿の小島本陣跡で、石部本陣跡碑があり、その奥に明治天皇聖跡碑が建っている。
傍らには、歌川広重画 「東海道五十三次之内石部目川ノ里」 がある。

浄現寺 明清寺 真明寺 田楽茶屋
石部宿本陣跡から左手3軒目の筋に浄現寺道標があり、路地を進むと右手に真宗大谷派の金谷山浄現寺がある。
浄現寺は、永正15年(1518)了法の開基であり、享保元年(1716)現地に移転した。
山門・本堂は最近改修した様子で新しく、境内は広くて、すっきりした解放感のある庭といった感じである。
続いて次の左手筋に明清寺寺標があり、奥に進むと浄土真宗本願寺派の平野山明清寺がある。
明清寺の創建年代等は不詳であるが、境内には龍谷門主即如上人お手植えの松がある。
街道に戻ると直ぐ左手の細い筋に真明寺道標があり、突当りに浄土宗の青木山真明寺がある。 真明寺は、土豪青木一族の青木検校の持寺で、慶長2年(1597)嶺誉蓮幸の開基といわれている。もとは青木氏の屋敷地で、青木右衛門佐は織田信長の家人、のちに越前丸岡城城主になった紀伊守一矩の子息という。境内には、石部で詠んだ芭蕉句碑、愛宕神社などがある。 真明寺を出ると枡形になったT字路の角に田楽茶屋がある。
田楽茶屋は、歌川広重画の目川ノ里に描かれた 「伊勢屋」を再現したものである。
茶屋の前には、道標を兼ねた行燈のモニュメントが建っている。

東海道道標 石部一里塚跡 西の見附跡 愛宕神社
田楽茶屋の先の枡形となったT字路手前に、旧東海道と記された道標が建っている。 T字路を左折して直ぐ、右手の民家前に石部の一里塚跡がある。
説明板によると、慶長9年(1604)東海道が整備された翌年に、西横町宮道が東海道に出た所あたりに設置されていた。 北側には榎、南側には椋の木が植えられていたが、明治2年に宿駅制度が廃止された時に撤去された。 これより西は梅ノ木の立場にあった。東は夏見の立場にあった。ここは江戸日本橋から数えて、116里目の一里塚跡である。
石部西交差点を渡った右角に、石部宿の西の見附跡があり、説明板には次のように記されている。見附は桝形城門の俗称で、番兵が通行人を見張るところから、「見付」 といわれています。 東の見附より西の見附の間が石部宿であり、宿場の街頭の出入り口にも見附が構築されたが、それは土手状のもので、石部宿の場合、東西2ヶ所にありました。 見附の西側には目見改場(めみえあらためのば)が設けられていました。 先に進むと、右手の塀の中に愛宕神社がある。
境内への入口の門扉は閉じられており、境内には立ち入れなかった。

三上山 西縄手 第3号町道橋 国道1号線高架
先に進むと街道の先に、標高432mの三上山が見えている。
三上山は、山の形状から 「近江富士」 と呼ばれている。また、藤原秀郷(俵藤太)による大ムカデ退治伝説があることから 「ムカデ山」 の異名もある。
左手の集落が途切れる辺りに小公園があり、石部宿と記された行灯のモニュメントが建っている。
この辺りは立場から立場の間の道で、石部宿の西に当たることから西縄手と呼ばれた。江戸時代、石部宿に入る前に参勤交代の為の大名行列を整列した場所で、長い松並木があった。
街道は、村井川に架かる第3号町道橋を渡って、突当りを左折して行く。 左折して直ぐ左の宮川に架かる五軒茶屋橋を渡るのが上道であり、直進するのが初期の東海道の下道である。
初期の東海道を進んで行くと、国道1号線の高架が横切っており、その下に宮川に架かる宮下橋がある。下道は度々洪水に見舞われた為、天和3年(1683)に上道が開設された。

名神高速道路 徳生寺 壽泉神社 旧伊勢落村
下道を進むと名神高速道路の栗東21ガードがあり、その手前で湖南市から栗東市へ入る。ガードを潜ると左からの上道が合流する。
この先は左右に畑があり、右手に三上山が良く見える。
畑の中の一本道を抜けて、集落が始まると間もなく左手に、浄土真宗本願寺派の辨天山徳生寺がある。
徳生寺の創建年代は不詳であるが、宝暦2年(1752)宗欽が中興しており、境内には鎌倉時代後期の宝篋印塔や三重塔・五重塔などがある。また、室町時代の方便法身尊像が伝わることから室町時代には創建されていたと言われる。
徳生寺の西側に壽泉神社がある。
壽泉寺は、もと十禅師社と称し、十禅師大権現を祀っている。村上天皇天暦7年(953)左大史小槻宿禰が金名山再建に与り、その護法神として日吉十禅師を勧請したと伝えられる。
本殿脇には、石燈籠の火袋にあたる部分に六地蔵尊を刻んだ石幢がる。
街道に戻って旧伊勢落村の集落を進むと、左右に立派な旧家が建ち並んでいる。
ここは、かつて伊勢参宮道が通っていたため、伊勢大路が訛って伊勢落になったという。

真教寺 素月漢詩碑 岩上神社 新善光寺道道標
先に進むと街道左手奥に浄土真宗本願寺派の日向山真教寺がある。
真教寺は、延徳2年(1490)浄願の開基であり、本尊の阿弥陀如来像は、慈覺大師作である。
街道に戻ると左手の民家の前に地蔵堂と栗太八景を詠んだ素月漢詩碑がある。素月は、今の栗東市大橋の慶宗寺の僧致遠であり、江戸時代中期の寛延3年(1750)に栗太地域の八景観を漢詩に詠んだ。栗太郡の名称は、栗太郡栗東町の市制により、平成13年に消滅したが、「栗太」 の地名を残すため栗田八景漢詩碑を建立したものである。 直ぐ先の左手筋に常夜燈があり、その先の林の中に岩上神社がある。
岩上神社は、天正6年(1578)日向山の山頂にあった霊石が豪雨により滑落したため、村人がこれを祀ったのが始まりという。
街道に戻って進むと、右手筋角に新善光寺道と刻まれた道標が建っている。
新善光寺は、JR草津線を越えて4~500m程北に有る寺院で、鎌倉時代の中期、平重盛の末裔である小松宗定が、平氏追善のために信濃の善光寺に参詣すること48回におよび、ついに霊夢を感じて分身の阿弥陀如来像を請来したのが始まりと言われている。

長徳寺 新善光寺道道標 法界寺地蔵院 道祖神
道標から程なく、右手に浄土真宗本願寺派の楞巌山長徳寺がある。
長徳寺は、永正16年(1519)晴雲の開基であり、山門手前に薬師如来堂がある。
如来堂の前には、膳所藩領堺石 「従是東膳所領」、素月漢詩碑などが建っている。
先に進むと右手の筋角に新善光寺道道標と明治24年(1891)の常夜燈が建っている。
先にあった新善光寺道道標より大きく、道標には 「是より一町餘」 と刻まれ、傍らに新善光寺300mの道路標識がある。
先に進んでY字路を左に進むと、右手に法界寺地蔵院がある。
昔はこの寺に、ここ旧六地蔵村の土地の名前の由来にもなった六体の地蔵があったが、現在は国の重要文化財にもなっている地蔵菩薩立像が一体安置されている。
旧六地蔵村の街道に戻ると、直ぐ先を横切る水路左脇に丸石の道祖神と男女双体道祖神が祀られている。

浄玖寺 福正寺 和中散本舗 六地蔵一里塚跡
水路を過ぎた左手に浄土宗の日向山印松院浄玖寺がある。
浄玖寺は、天正13年(1585)定玖の開基であり、
境内には一石六地蔵尊、男女双体道祖神などがある。
続いて右手に真宗大谷派の高野山福正寺がある。福正寺の創建年代は不詳であるが、寛政2年(1461)蓮如上人に帰依した住職・正善が浄土真宗に改宗し、その後の大谷本願寺の破却 「寛政の法難」 で逃れた蓮如上人は一時、福正寺に逗留している。
参道入り口に蓮如上人御舊跡碑があり、境内には栗東市指定文化財の石造多層塔がある。
福正寺を出ると街道が右にカーブするところに史跡旧和中散本舗(大角屋)がある。
ここ六地蔵には江戸時代、旅人のために道中薬を売る店が数軒あり、大角屋は、その中で和中散という薬を売る 「ぜさいや」 の本舗として栄えた。和中散という名は、徳川家康が腹痛を起こしたとき、この薬を献じたところ、たちまち治ったので、家康から直々付けられた名前と言われる。
先に進むと左手の県道116号線との間に六地蔵の一里塚跡がある。
一里塚碑は道標になっており、「東へ至石部の宿」 「西へ至目川一里塚」 と刻まれており、傍らに東海道名所図絵 「梅の木」 碑が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて、117里目の一里塚跡である。

地蔵堂 高念寺 光圓寺 肩かえの松
街道を進むと、六地蔵会議所を過ぎた左手の路地脇に地蔵堂があり、2体の地蔵尊が祀られている。 先に進んで十字路を過ぎると、左手に真宗大谷派の香雲山高念寺がある。
高念寺の創建年代は不詳であるが、宝徳3年(1451)道順により中興された。
山門は長屋門に二階を乗せたような太鼓門であり、境内には庭園風の植栽の中に五輪塔などが配されている。
街道に戻って進み、旧手原村に入ると、右手に真宗大谷派の小野山光圓寺がある。ここまで見てきた浄玖寺・福正寺・高念寺と同様、街道から細い参道の先に山門がある。
光圓寺は、明応2年(1493)幸円の開基であり、本尊は阿弥陀如来である。
光圓寺の直ぐ先右手に肩かえの松がある。
旅人足等がこの松の木の下で休憩し荷物を担う肩をかえた所と言われている。
この松の奥に真宗大谷派の石谷山西巌寺があり、本堂のみ建っている。
西巌寺は、天和3年(1683)秀岳の開基であり、本尊は阿弥陀如来である。

名神高速高架・行者堂 里内呉服店 手原醤油 厚進学校跡
先に進むと名神高速道路栗東インターチェンジへの高架が横切っている。
高架をくぐると右手に行者堂がある。文政3年(1820)里内九兵衛なる者が役行者像を小堂に納め、行者講を行ったという。
行者堂から程なく右手に里内呉服店がある。里内呉服店は、明治5年(1872)創業で、大正11年(1922)まで呉服店を営んでいた。
この建物は国登録有形文化財となっている。
里内呉服店の隣に手原醤油塩屋藤五郎が建っている。
店脇には手原醤油顕彰碑が建っており、三代目藤五郎(幼名長之助)と四代目藤五郎(幼名菅次郎)について刻まれている。
直ぐ先、左手の手原赤坂会館前に厚進学校跡碑が建っており、碑の奥にはかつての学校門柱が保存され、傍らに学校門柱碑・赤坂山記念碑がある。

手原稲荷神社 素月漢詩碑 東海道碑 真慶寺
手原赤坂会館の隣に手原稲荷神社がある。
手原稲荷神社は、寛元3年(1245)領主の馬淵広政が勧請し、以後、子孫は手原氏と称し代々崇敬した。また当社は里中稲荷大明神とも笠松の宮とも称されている。
赤い玉垣の前には、明治天皇御小休所碑・手孕ベンチがあり、境内には明治天皇御聖跡碑のほか、愛宕神社・御太刀大明神の境内社がある。
手原稲荷神社前の十字路左角に素月漢詩碑がある。中央の碑に 「手原行人 雨寒塵路手原辺 客袂涙霑萬里天 終日著鞭馳痩馬 往来有故幾年々 寛延3年12月 素月作」 と刻まれ、その左の碑に 「手原を通る旅人 雨は寒く塵の路手原辺り 客の袂は涙に霑る万里天 終日鞭を著け痩馬は馳せ 往来故くから有り幾年々」 と刻まれている。 素月漢詩碑の向かいにある石材店の一角に東海道碑が建っている。 街道は手原稲荷神社前の十字路を直進するが、右に曲がってJR手原駅方向に進むと、左手に浄土宗の三雲山真慶寺がある。
真慶寺の創建年代は不詳であり、もと栗本寺と称していたが、室町時代、近江源氏ゆかりの大西大和守一族により再興され、真慶寺と改称した。本尊は阿弥陀如来立像で、脇仏は地蔵菩薩立像である。

圓徳寺 代官邸跡 東経136度子午線 手原の家並み
真慶寺の西に隣接して、浄土宗本願寺派の光輪山圓徳寺がある。
圓徳寺は、享徳2年(1453)真覚法師が蓮如上人に帰依して手原道場として開基した。その後、昭和38年(1963)不慮の火災で堂宇と共に寺宝も灰燼に帰したが、導師御真筆の三帖和讃は焼失を免れた。山門前に蓮如上人御旧跡碑があり、境内には親鸞聖人像・蓮如上人像がある。
街道に戻って十字路の先を進むと、左手に旗本渡辺領代官猪飼邸跡がある。
長屋門の遺構が残っており、現在はこの門の前に猪飼時計店がある。
代官邸跡の直ぐ先の十字路を越えた右手に東経136度子午線標柱が建っている。
正面に 「東経136度子午線」、右側面に 「北緯35度01分22秒」、左側面に 「太陽南中時刻午前11時56分」 と刻まれている。
真っ直ぐ延びた街道の両側には、立派な造りの旧家が建ち並んでいる。

すずめ茶屋跡 鈎(まがり)の陣跡 葉山川橋 圓重寺
先に進むと右手筋の手前にすずめ茶屋跡地と刻まれた石柱がある。
石柱の残りの三面には道筋が刻まれ、この石柱は道標になっており、右手筋は琵琶湖東岸の志那津の湊へ通じる道である。徳川家康は大阪冬の陣の際にこの志那津の湊から船で渡り、この時、志那津は 「死なず」 に通じ縁起が良いとされた。
先に進んで県道55号線を越えると、左手の上鈎池の堤脇に鈎の陣跡がある。
ここは足利幕府第9代将軍吉尚公が、幕府に反抗する六角高頼を討伐する為この地に着陣するも、25歳の若さで病没してしまった所である。ここには 「鈎の陣所ゆかりの地碑」 のほか、陣中で詠まれた歌碑などが並んでいる。
上鈎東信号交差点を越えて、更に進むと葉山川に架かる葉山川橋がある。
葉山川は、周囲より一段高い所を流れる天井川であり、橋の渡り詰め左に東海道道標が建っている。道標には、「上鈎」 「川辺」 と刻まれており、ここより旧川辺村へ入って行く。
葉山川橋を渡って進むと、右手に真宗大谷派の圓重寺がある。
圓重寺は、延宝4年(1676)光英の開基であるが、その後の寺歴などは不明である。境内には石造物は無く、植栽の多い庭園といった感じである。

川辺の町並み 善性寺 道標 地蔵院
圓重寺を過ぎると長閑な川辺(かわづら)の町並みが続いている。川辺の名前は、川の畔に沿ったことに由来するが、「かわづら」 と読むのは珍しい。 川辺信号交差点を過ぎると、左手に真宗大谷派の養煙山善性寺がある。
善性寺は、慶安2年(1362)僧玄龍の開基であり、文政9年(1826)4月シーボルトが江戸からの帰途、善性寺を訪ねている。
境内は極めて狭く、窮屈なところに鐘楼が建っている。
善性寺の直ぐ先でT字路に突当り、正面に道標が2基建っている。
左は平成23年のもので 「←中郡街道・東海道→」と刻まれ、右の道標は、正面に 「東海道やせうま坂」、右側面に 「中仙道でみせ」、左側面に 「金勝寺こんぜ」 と刻まれている。ここより旧坊袋(ぼうぶくろ)村へ入って行く。
T字路を右に曲がると、右手に浄土宗の延命山地蔵院がある。
地蔵院の創建年代等は不詳であるが、境内には元禄年間亥年の刻印がある皇大神宮の碑のほか、三界萬霊塔・地蔵尊などの石造物がある。

目川ひょうたん 目川一里塚跡 専光寺 田楽発祥の地
地蔵院の先で左にカーブして先に進むと、右手に 「目川ひょうたん展示・販売」 の看板を掲げた家がある。
目川は草津宿に接する立場であり、瓢箪(ひょうたん)は旅人が、お茶やお酒などを入れる容器として売られていたものである。江戸時代中期から明治時代まで農家の副業的地場産業であった。
直ぐ先右手に目川の一里塚跡がある。
目川村の一里塚は、現在の鎌田屋敷の東隅と、その向いの旧北野屋敷の西隅にあり、椋(むく)の大木があったと言われ、当時の一里塚は、西は草津市野路に、東は六地蔵(梅の木)にあったと言われている。
ここは江戸日本橋から数えて、118里目の一里塚跡である。
一里塚跡から程なく右手に、真宗大谷派の久遠山専光寺がある。
専光寺は、応仁元年(1467)の光念の開基であり、
境内には推定樹齢350年の大イチョウがある。
専光寺を過ぎると、右手に 「田楽発祥の地」 碑と領界石 「従是西膳所領」 がある。
ここは目川立場の田楽茶屋 「元伊勢屋跡」 である。此処での食事は、地元産の食材を使った菜飯と田楽であり、東海道の名物となった。広重の 「東海道五十三次之内石部目川ノ里」 には、「元伊勢屋」 が描かれている。

ほっこりまつり 古志ま屋跡 乗圓寺 京伊勢屋跡
街道には、東海道ほっこりまつりの黄色の幟が立っている。
東海道目川では、毎年、街道を9時~21時まで歩行者天国にして、時代絵巻・茶店・模擬店等々催し物が行われている。
元伊勢屋跡から2~3軒ほど隣の民家に古志ま屋跡がある。
田楽茶屋は、立場の元伊勢屋(岡野屋)と、この古志ま屋(寺田家)、京伊勢屋(西岡家)の三軒を言い、すべてが岡の地に店を構えた。
直ぐ先で十字路を渡ると、左手に真宗大谷派の東護山乗圓寺がある。乗圓寺は、天和元年(1681)近江の国栗太郡岡村士民の発願により創建された。
それほど広くない境内には、イチョウの木があるが、石造物は見当たらない。
乗圓寺を過ぎると右手に、京伊勢屋跡がある。標石には 「目川田楽京いせや跡」 「東海道間の宿岡村 菜飯田楽京いせや西岡忠兵衛屋敷」 と刻まれている。
傍らに建つ説明は、古志ま屋跡とほぼ同文である。

御対面所跡 田楽茶屋ほっこり庵 膳所城大手門 東海道新幹線高架
京伊勢屋跡の斜向かいに 「舊跡人吉藩主相良候御対面所跡山本家」 碑が建っている。
平成26年移築とあるが、解説もなく何の石碑か不明である。しかし、相良家は、肥後南部を支配した戦国大名の氏族であり、江戸時代は肥後人吉藩主家として明治維新まで存続している。
直ぐ先で街道が右に折れる左手に、田楽茶屋ほっこり庵がある。
ここでは目川田楽・菜飯・季節の野菜の煮物などのメニューがあり、隣のほっこり湯には、ヤマキ酒店が設置する足湯がある。
田楽茶屋ほっこり庵の隣に、膳所城大手門が移設されている。この門の形式は高麗門と言い、城の枡形虎口の一の門で、攻城戦に耐える堅牢さと威厳を備えた意匠である。屋根は本柱通りに切妻を設け、控えにはそれより低い切妻屋根を乗せる。乗馬のまま通れる寸法で、内法高は8尺3寸(2.5m)である。
門前には、芭蕉が田楽の酒 「菊の水」 で田楽料理に舌鼓を打ったときに詠んだ句碑がある。
旧草津川の土手に沿った道を進むと、東海道新幹線の高架が横断している。

領界石 史跡老牛馬養生所趾 高札場跡 草津市
東海道新幹線の高架の先右手に、平成18年8月15日に建立された領界石 「従是東膳所領」がある。 程なく右手に史跡老牛馬養生所趾碑が建っている。ここは和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が、湖西和迩村の牛場で老廃牛馬の打ちはぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛馬であっても息のある間は打ちはぎをすることを止めるよう呼びかけ、天保12年(1841)4月当地が東海・中山両道を集約する草津宿の近くであることから、ここに老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生所を設立し、県下の老牛馬を広く収容した。 続いて右手に小柿村の高札場跡がある。 高札場跡の直ぐ先で、栗東市から草津市へ入って行く。

旧道分岐 いろはモミジ 地蔵堂 国道1号線
草津市へ入って間もなく左手に草津川の土手道へ上がる旧道分岐がある。
現在、この先は草津川を開削して国道1号線の工事をしているため、先に進んで草津川を渡る必要がある。
迂回路の下道を進むと、分岐した左の土手に推定樹齢150年以上のいりはモミジがある。
旧東海道の草津川を渡り伊勢路に至る堤防を下った現県道草津線・六地蔵線との合流点にあり、
少なくとも明治・大正・昭和の激動期をじっと見つめてきた木に違いない。
先に進むと、右手に地蔵堂がある。 国道1号線に架かる横断歩道橋から草津川方向を見ると、完全に開削されている。
そのうち旧東海道の横断歩道橋が架けられるのであろうか。

草津川橋 常夜燈 高野地蔵堂 神宮寺
国道1号線を渡って迂回すると、草津川の東側は工事中である。
中山道を歩いた時には、西側はまだ工事中であったが、現在は整備されて綺麗な公園になっていた。
現在は通れないが、草津川橋を渡って堤防を進むと、左手に文化13年(1816)の常夜燈が建っている。
この常夜燈は、日野の豪商中井正治右衛門橘武成の寄進によって建立されたもので、常夜燈の竿石には 「右金勝寺志がらき道」 「左東海道いせ道」 と刻まれ、道標を兼ねている。
常夜燈の向かい側に高野地蔵堂があり、地蔵堂には2体の地蔵尊が安置されている。
この地蔵堂の直ぐ後ろには、真新しい社殿の立木神社御旅所がある。
土手道を下って最初の左手筋を入ると、天台宗の景雲山神宮寺がある。神護景雲元年(767)立木神社の神護寺として創建された。
本尊十一面観音菩薩立像は推古天皇の御代、聖徳太子42歳の時、自ら厄除けの為、彫刻されたと伝えられている。この十一面観音菩薩立像は、草津市指定文化財の秘仏で33年に一度御開帳される。

中山道合流 高札場跡 草津宿 田中七左衛門本陣跡
先に進むとT字路に突き当たり、ここで右から来る中山道と合流する。
右手のトンネル脇には、文化13年(1816)の諸国定飛脚問屋が寄進した追分道標の常夜燈が建っている。ここから先は中山道歩きで京都まで歩いているが、東海道歩きとして京都まで進む予定である。
追分道標の常夜燈の向かい側に高札場跡があり、小さな高札が復元されている。
隣の小さな祠には、延命地蔵尊が祀られている。
左手の草津市市民センターの前に草津宿の看板が建っている。この看板の題字は、草津市在住の書師 「秀蓮」 氏の作品である。
草津宿は、天保14年(1843)の 「東海道宿村大概帳」 によれば、宿内家数586軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠72軒であった。看板の傍らには、堯孝法師歌碑・ランナー(時の旅人)像などがある。
直ぐ右手に草津宿田中七左衛門本陣跡がある。この本陣は、田中七左衛門が寛永12年(1635)に本陣職を拝命したとされ、明治3年(1870)に本陣が廃止となるまで、代々本陣職を勤めてきた。また、いつの頃からか材木商も営む様になり、田中九蔵本陣と区別して 「木屋本陣」 と呼ばれていた。現存する宿帳から、浅野内匠頭・吉良上野介・シーボルト・皇女和宮・徳川慶喜など、歴史上有名な人物が数多く宿泊・休憩している。

藤屋脇本陣跡 仙台屋脇本陣跡 真教寺 街道交流館
左手に藤屋与左衛門脇本陣跡がある。
明治時代に御茶屋となった吉川芳樹園の店舗兼主屋は、平入り正面上部の虫籠窓風の意匠や漆喰で塗り込められ、出桁などが町屋らしい雰囲気を醸し出している。
鬼瓦に文政13年(1830)の銘があるこの建物は国の登録有形文化財に指定されている。
藤屋脇本陣跡の隣に脇本陣仙台屋茂八跡があり、ベーカリー&カフェ脇本陣という店舗になっている。
店舗の右側には、草津宿脇本陣跡碑が建っている。
草津市まちなか交流館の先の十字路を左に入ると右手に、真宗仏光寺派の真教寺がある。
真教寺の創建年代は不詳であるが、もと天台宗であったが、延応2年(1240)改宗し、天正17年(1589)法西が再建した。
境内の鐘楼には、コンクリート製の梵鐘が吊り下げられており、傍らに忠犬シロの供養碑が建っている。
街道に戻ると、左手に草津宿街道交流館があり、街道マップや幕末の草津宿の模型や旅の道具・道中記などの史料が展示されている。

常善寺 道灌蔵 正定寺 八百久
街道交流館の向かいに浄土宗の布薩山常善寺がある。
常善寺は、天平7年(735)良弁僧都の創建お伝えられる草津町最古の名刹であり、かつては堂塔伽藍も整っていたが、兵火や水害によって荒廃したものである。本尊の阿弥陀如来坐像と観音菩薩・勢至菩薩の三尊が重要文化財に指定されている。
街道に戻ると左手に太田酒造道灌蔵がある。江戸城築城の祖として、文武両道に優れた武将名高い太田道灌を祖先に持つ太田家は、東海道五十三次の宿場の中でも大宿であり、また水陸交通の要所でもあった草津において、街道の動静を見守る関守を務め草津行政の中心となっていた。太田家が酒造りを始めたのは廃藩後のことで、大吟醸道灌・本醸造千代八千代などがある。 道灌蔵の西隣に浄土宗の佛國山正定寺がある。正定寺は、寛永15年(1634)の開基で、寛延3年(1750)見誉により再建され、本尊は木像阿弥陀如来三尊立像である。墓地には、草津本陣(木屋本陣)田中家及び田中久藏本陣の墓所がある。
境内には観音堂・子育地蔵尊・供養塔などがある。
正定寺の西隣に八百久店舗兼主屋がある。
八百久は寛保年間(1741-43)から日用品(鋤・鍬・天秤・火鉢など)を扱う商家だった。
現在の建物は、昭和3年(1928)に建てられたもので、厨子二階建であり、二階は格子窓と虫籠窓の伝統的な意匠が用いられ、平成19年(2007)に国の登録有形文化財となっている。

日吉神社 立木神社 黒門跡 矢倉橋
更に八百久の西隣に日吉神社がある。
日吉神社の創建年代等は不詳であるが、社殿の瓦には阿形の猿像と吽形の猿像が乗っている。また傍には和宮降嫁の折に移されたという山王地蔵尊がある。
先に進んで県道141号線を渡ると右手角に立木神社がある。立木神社は、称徳天皇神護景雲元年(767)に御祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が常陸国の鹿島神宮を白鹿に乗り旅に出られ諸国を経てこの地に到着され、手に持たれた鞭をこの地に刺したところ枝葉が出たため、里人がこの木を崇めて社殿を建てたのが始まりと云う。
境内には恵比寿神社・天満宮社・松尾神社などの境内社がある。
立木神社を過ぎると、草津川に突き当たる手前左手に黒門跡がある。
ここは草津宿の京口で、文化14年(1817)に黒門が設けられた。遺構などは残っていないが、説明板が建っている。
草津宿の京口に平成14年(2002)に天井川の旧草津川から川筋を変えて付替えられた草津川があり、ここに矢倉橋が架かっている。

光伝寺 武甕槌神社 地蔵尊 古川酒造
矢倉橋を渡った直ぐ左手に、浄土宗の法照山光伝寺がある。光伝寺は、承平年間(931-38)の開基であり、本堂は応仁の乱で焼失したが、明暦年間(1655-57)に再興された。
本尊の木造阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)は、国の重要文化財に登録されている。
街道に戻ると、直ぐ右手に武甕槌(たけみかづち)神社がある。
武甕槌神社の由緒等は不詳であが、武甕槌神は、日本神話にある神の名で、建御雷神などとも記される。
右手の矢倉集会所の前に、色付けされた地蔵尊が祀られている。 地蔵尊の直ぐ先、右手に明治以前から創業する古川酒造がある。
酒銘 「天井川」 は、旧草津川の天井川に由来している。

養蓮寺 願行寺 道標 愛宕神社し
古川酒造の斜向かいに、真宗大谷派の兵庫山養蓮寺がある。
養蓮寺は、天平2年(730)の開基であり、永正11年(1514)空西によって再興された。本尊の阿弥陀如来は、聖徳太子作といわれる。
養蓮寺の西隣に道路を一本挟んで、真宗大谷派の石佛山願行寺がある。
願行寺は、天平2年(730)の開基であり、当時の寺の場所は石佛村であった。応永2年(1395)本願寺第5世綽如上人に帰依し、その後元禄の頃(1700)現在地に移った。
境内には、地蔵堂・ほうりん塔と刻まれた石碑が祀られた小社などがある。�
街道に戻ると、右手の瓢泉堂の前に寛政10年(1798)の道標が建っている。道標には 「右やばせ道 これより廿五丁 大津へ船わたし」 と刻まれている。
歌川広重の 「東海道五十三次之内草津名物立場」 は、この辺りから描かれたものである。
瓢泉堂の先の右手筋を入ると、左手に愛宕神社がある。
社殿脇には、色付けされた地蔵尊が祀られた小社がある。

地蔵尊 稲荷神社 東海道道標 野路一里塚跡
街道に戻ると、右手の民家前に目鼻を色付けされた地蔵尊が祀られている。 先に進むと、信号交差点の手前左手に稲荷神社がある。
鳥居の先を進むと、左奥に社殿が二つ並んでおり、向かって右が朝日大明神・左が伊吹大明神である。ここには矢倉城という平城があったというが、遺構は残っておらず、説明もなく詳細は不明である。
信号交差点を渡って先に進むと、国道1号線の矢倉南交差点の手前右手に東海道道標があり、この先の野路一里塚への道順が示されている。 東海道道標に従って国道1号線を横断して進むと、上北池公園内に野路一里塚跡がある。野路一里塚は、ここより北西に約30mの所と道路を挟んだ北東約20mの所の二ヶ所にあった。
ここは江戸日本橋から数えて、119里目の一里塚跡である。

東海道道標 教善寺 地蔵尊 遠藤権兵衛家
上北池公園前のかがやき通りを横断すると、左手に東海道道標が建っている。
矢倉南交差点前に有った東海道道標と同様、国道1号線とかがやき通りで分断された旧道の迂回路が示されている。
東海道道標の先を進むと、左手に浄土宗の本誓山教善寺がある。
教善寺は、承応2年(1653)隋誉による開基であり、
境内には聖観音菩薩・十一面観音菩薩立像・勢至丸像などがある。
教善寺の隣に地蔵堂があり、全体を白く塗り、目を黒く塗った地蔵尊が祀られている。 地蔵堂の直ぐ先右手にブロック塀に囲まれた遠藤権兵衛家があり、塀の上に解説がある。源平の戦いで敗れた平家の総大将宗盛は野洲篠原で斬首され、長男の清宗はこの地に置いて掘弥太郎景光の一刀で斬首された。
遠藤権兵衛家は門が閉ざされており、庭内に入れなかったので前回(平成27年)の写真を掲載する。雨が一段と強くなってきたので、今回はここで終了し、最寄りの南草津駅に出て上京する。

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