関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は、その翌年の慶長6年(1601)、東海道に伝馬制を制定した。宿駅が定められ草津宿や石部宿が置かれた。宿場には人馬の継ぎ立てを行う問屋場や公用宿の本陣職が指名されて宿場機能が整えられていった。
旅をする人達が旅に必要な物を総て宿場町で賄うことが出来ないため、幕府は宿場と宿場の中間に 「間の宿」 を置き、ここで必要な物が整えられるようにした。
間の宿の中心施設が立場である。 石部宿と草津宿間には六地蔵の 「梅ノ木立場」 と、岡の 「目川立場」 が置かれた。
目川立場を担ったのが屋号を 「伊勢屋」 とした岡野五左衛門家である。 伊勢屋は精進料理を味付けで工夫して商品化に成功し、「めがわ田楽」 として売り出した。
主食=菜飯。副食=田楽。お酒=菊の水。の三点セットである。 「安くて・美味しくて・腹持ちがよい」 と大評判になり、商品名の 「めがわ田楽」
は全国へ波及していった。 京都・大阪・江戸にも 「めがわ田楽」 の店が営業していると 「江戸総鹿子大全」 や 「守貞漫稿」 等に記録されている。
岡でも伊勢屋一軒では旅人を賄い切れず、寺田家の 「こじまや」 や西岡家の 「京いせや」 が続いて店を開いている。往時のグイ呑み茶碗や看板が多く残され、繁盛の様子を今に伝えている。
大田蜀山人は 「改元紀行」 (享和元年=1801)に 『目川の立場には、菜飯と田楽とありと、今いずくにても目川菜飯とよぶは、此の所より起これりと聴きて、伊勢屋といへる家にいりて、かの菜飯をもとむるに、田楽の豆腐あたたかにものして味よろし。ここに目川とも女川とも染め付けたる茶碗もて、茶をすすむ。めずらかなれば二ッとも買ひぬ。銘酒あり。御銘菊の水と記せり』
と記している。
めがわ田楽の復元に当たっては、「田楽茶屋こじまやの伝承の味付け」 を忠実に守って復元した。
平成20年10月吉日 めがわ田楽保存会
店内の足湯
ほっこり湯
ほっこり庵に掛かるめがわ田楽由来