「草の戸や 日暮れてくれし 菊の酒」
元禄4年重陽芭蕉
「田楽で 芭蕉も飲んだ 菊の水」
沙弥随縁
吟客の随縁は、お坊さんらしいが詳細は不明である。
芭蕉句碑
膳所城は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦直後に大坂方への供えとして徳川家康が築城した。縄張りは藤堂高虎に、工事は諸大名に命じて築城した天下普請・第一号の徳川家の城である。
この門の形式は高麗門と言い、城の枡形虎口の一の門で、攻城戦に耐える堅牢さと威厳を備えた意匠である。門は左手に潜り戸を設け、控柱は八双に開く。屋根は本柱通りに切妻を設け、控にはそれより低い切妻屋根を乗せる。乗馬のまま通れる寸法で、内法高は8尺3寸(2.5m)である。
膳所城は、寛文2年(1663)5月1日に起きた安曇川地震で、大破したため、時の城主本多俊次によって大規模な改修・改築がされた。この門の主要な部材の経年変化と、屋根瓦の家紋が改築当時の城主・本多氏の「本多立葵紋」であることから、地震直後に建築されたと推定される。
甍部分に徳川家の「三つ葉葵紋」の紋瓦が6枚残ることから、膳所に築城された当時の家紋瓦は、すべて「三つ葉葵紋」が使われていた可能性が高い。
明治の廃藩置県で城の建物は膳所藩領の村に移築された。この門は膳所藩領だった栗東市林の長徳寺へ移築されていたが、今般建て替えられ、同じ膳所藩領の当地へ移築したものである。膳所藩領の村へ移築された城門の例は、膳所の膳所神社や矢橋の鞭埼神社が知られている。
移築にあたっては、主要部材は現状のまま使用した。屋根は長徳寺への移築時に寺院用に改築されていたことが判明したため一部を復元した。併せて耐震補強を施した。
平成25年3月吉日 ヤマキ酒店
膳所城大手門
膳所城大手門説明