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東海道   (土山~石部


平成29年10月1日(日)   ☀/☁    土山~石部    18.0㎞
本日は、宿泊地の水口から昨日終了した花枝神社まで出る必要があり、バスを調べたが日曜日はバスの運行が極端に減り、ほぼ走っていないため仕方なくタクシーを使うこととなり、午前6時30分には街道に立つことが出来た。

日の出 花枝神社鳥居 旅籠松坂屋跡 長圓寺
次第に日の出の時刻が遅くなり、今朝は6時07分にホテルの6階から見ることが出来た。 昨日終了した街道沿いの花枝神社鳥居前から6時30分にスタートとなった。 街道左手の長圓寺寺標前に旅籠松坂屋跡がある。
ここ旧大野村は、土山宿と水口宿の間にあった間の宿であった。
往時は多くの旅籠が並び、名物は雉・鴨・鷺などの野鳥の焼鳥と玉井という銘柄の酒であった。
旅籠松坂屋跡碑と長圓寺寺標の建つ筋を入って行くと突当りに浄土宗の明鏡山長圓寺がある。
長圓時は、もと禅宗の寺院であったが、文明年間(1469-86)に兵火により堂宇を焼失した。その後、天正7年(1579)に禅宗を改め浄土宗となり、安土浄厳院の末寺となり、近世に水口大徳寺の末寺に転じた。安政5年(1858)11月4日の火災により堂宇焼失し、その後再建されたが、約150年の年月で老朽化が進み、平成13年11月に再再建された。

神社 眞風軒漢詩碑 旅籠丸屋跡 明治天皇聖跡碑
先に進むと左手の三軒家集会所の隣に神社がある。
社殿には扁額もなく名前は分からないが、中には本殿の小社があり、神札が貼られている。
三軒家集会所の斜向かいに大野公民館があり、街道沿いに大野村の茶摘み風景を描写した眞風軒の漢詩碑がある。
また大野公民館の庭には、布引山を詠んだ鴨長明の歌碑がある。
先に進み甲賀農業協同組合大野支所を過ぎると左手に旅籠丸屋跡がある。
この先旅籠跡がたくさんあり、左手に旅籠松尾屋跡、ミサ美容院の先右手に旅籠井筒屋跡、その向かいに旅籠篤居屋跡、左手に旅籠中屋跡、右手料理旅館ますやの前に旅籠枡屋跡などとその先も続いている。
街道右手に明治天皇聖跡碑が建っている。
ここは旅籠小幡屋跡である。

安井酒造場 大野の家並み 三好赤甫旧跡 大日如来
明治天皇聖跡碑の斜向かいに、明治17年(1884)創業の安井酒造場がある。
安井酒造場は、鈴鹿山系の伏流水と近江米を使用し、主な銘柄は初桜である。
安井酒造場の先で国道1号線に突き当たり、ここまで旅籠跡は全て石碑のみで古い建物が残っている訳ではないが、間の宿の面影を感じさせている。 国道1号線の手前右手に日本料理の 「みよし赤甫亭」 があり、店の前に三好赤甫先生を偲ぶ碑と解説が建っている。
三好赤甫は、待花園月坡と号し、通称才市と呼ばれた。京都に上り東福寺法主虚白禅師に就いて研鑽を深め、その後、郷里に帰ってこの地方の俳諧の基礎を築いた。
国道1号線に突き当たる右手角に大日如来を祀った祠が建っている。
祠の脇には、布引山若王寺と刻まれた道標が建っている。若王寺は国道1号線を渡った100m程のところにある。

若王寺 旅籠東屋跡 県道183号線跨橋 今宿の家並み
国道1号線を横断歩道で渡ると、正面に若王寺寺標があり、この奥突当りに浄土宗の布引山医王院若王寺がある。
若王寺は、もと天台宗の寺院であったが、承応2年(1653)に改宗し、万治元年(1658)に再建された。
境内には、三好赤甫句碑 「うぐいすや早苗に影を落としいく」 がある。
若王寺寺標のところから旧道に入って先に進むと、左手に茅葺屋根の旅籠東屋跡がある。旧大野村の間の宿は、ここまで続いていた。 旅籠東屋跡の直ぐ先で、県道183号線の跨橋を渡って行く。
この橋からは、右にも左下にも田圃が一面に広がっているのが見える。
県道183号線跨橋を渡ると、旧今宿村へ入って行く。今宿村は焼酎が名産であった。

東海道今宿碑 甲賀市水口 旧道口 稲川碑・経塚
先に進むと国道1号線に突き当たり、この左手段上に東海道土山今宿碑・山灯籠があり、右手街道沿いに地蔵尊が建っている。 国道1号線を渡ると県道549号線に甲賀市水口標識が建っている。
この左手にポケットパークがあり、水口宿モニュメントと甲賀市観光絵図が建っている。
ポケットパークの向かいに坂道の旧道口があり、東海道道標が建っている。
今宿碑から直線で結ぶとこの坂上に繋がるが、この枡形道は国道1号線が旧東海道を横切っているためにできた道である。
旧道の坂道に入って直ぐ右手に稲川碑、その先に経塚がある。
稲川碑は木々の中で確認できないが、それぞれ解説板が建っている。

今在家一里塚跡 浄土寺 地蔵尊 高札場跡
先に進むと左手に今在家の一里塚跡が復元されている。「今在家村地券取調総絵図」 によれば、今の位置よりも東にあり、また道を挟んで両側に対に築かれていた。 江戸時代の一里塚は明治の初年に撤去され、現在の一里塚はその後、復元されたもので塚上には榎が植えられているが、かつては桜が植えられていたと伝わっている。
ここは江戸日本橋から数えて112里目の一里塚跡である。
一里塚跡の奥に浄土宗の権現山地蔵院浄土寺がある。
浄土寺の創建年代等は不詳であるが、延宝9年(1681)に再建され、本尊は阿弥陀如来で、甲賀四国八十八箇所の86番札所となっている。現在は八幡神社境内に移されているが、かつては歯の神様として信仰を集めていた白山権現社が建っていた。
街道に戻って先に進むと、左手の竹林の前にたくさんの地蔵尊が並んでいる。
現在、旧街道標識は浄土寺の表山門前を通り県道549号線に出るようになっている。
道なりに進んで県道549号線に突き当たる左手角に高札場跡があり、街道碑が建っている。
高札場の多くは人の目に触れるように、村の中心や主要な街道が交錯する交差点といった人通りの多い場所に設置されることが多く、この付近には今在家村の高札場があった。

旧道口 旧家 宝善寺 八坂神社
県道549号線に合流して間もなく、右手に旧道口があり、植栽の中に東海道道標が建っている。 旧道を進んで程なく左手に虫篭窓の付いた連子格子の旧家が建っている。 先に進むと十字路を越えた右手に浄土宗の龍王山宝善寺がある。
宝善寺の創建年代等は不詳であるが、もとは真言宗であったと云われている。
境内には、みどり児地蔵尊を囲んで古めかしい五輪塔や地蔵菩薩が並んでいる。
宝善寺山門脇から左の山手に八坂神社の参道があり、綺麗に整備された石段を上って行くと八坂神社がある。
八坂神社の創建年代等は不詳であり、一の鳥居は新しいが、二の鳥居から先の参道は古く、社殿覆屋の中には3つの社が祀られている。

道標 八坂神社社標 岩神社 旧道口
街道に戻ると県道549号線に合流する手前の右手にある消火栓の脇に小さな道標が建っている。
文字ははっきり見えないが、西明寺という文字が確認できる。
県道549号線に合流して直ぐ、左手の橋の脇に八坂神社社標が建っている。
社標には 「八坂神社本殿」 と刻まれており、社殿は橋を渡って700~800m程先の志賀ゴルフ倶楽部の手前にある。創建年代等は不詳であるが、江戸時代には牛頭天王社とも儀俄大宮とも云われた神社である。
八坂神社社標の直ぐ先、右手に岩神社・岩上不動尊参道の社標があり、この裏山中腹に岩神社がある。
岩神社は、江戸時代に社殿は無く岩を祭っており、村人は子供が生まれると、この岩の前に立って旅人に頼んで子供の名前を決めてもらう習慣があったという。
社殿前からは、野洲川一帯を見下ろすことが出来る。
岩神社社標前のY字路右手筋が旧道であり、この入口に東海道道標が建っている。

永福寺 八幡神社 東海道道標 東海道の松並木碑
街道を進むと左手に浄土宗の日照山護念院永福寺がある。
永福寺の創建年代等は不詳であるが、宝永2年(1705)に再建され、本尊は阿弥陀如来であり、寺宝に絹本著色阿弥陀如来四尊来図が保存されている。
境内には、地蔵堂・六地蔵尊・子孫が建立した新庄伊勢守宗重碑がある。
旧新庄村を進むと右手に八幡神社社標が建っており、奥に見える林に社殿がある。
八幡神社の創建年代等は不詳であるが、主祭神は誉田別命で、境内には八坂神社・春日神社のほか稲荷社・津島社などの境内社があり、参道口には天正年間(1573-92)に兵火に遭い廃寺となった天水寺の本尊であった馬頭観音が祀られた観音堂がある。
八幡神社の先のY字路は右が旧街道で、分岐口に東海道道標が建っている。 緩やかな上り坂を進むと右手に東海道の松並木碑が建っている。
碑には概ね次のように記されている。
この辺りは街道の清潔なことと、手入れの行き届いた松並木で、東海道を通行した外国人も賞賛した記録がある程であったが、先の大戦を境にして、その多くが失われた。水口宿に程近いこのあたりからは、松並木の合間から古城山が望まれ、絵のような景色であったという。

地蔵堂 大師寺 山川橋 水口宿東見附跡
先に進むと、「すべり坂」 と呼ばれる下り坂の右手に地蔵堂がある。
地蔵堂には、地蔵菩薩立像・厨子が安置されている。
地蔵堂の先の左手に高野山真言宗の大師寺がある。
大師寺は、嘉永2年(1849)奥村藤八の開基で、境内には弘法大師を刻んだ十三重塔が建ち、四国八十八箇所霊場の弘法大師碑が並んでいる。
大師寺の前の信号十字路を渡ると、山川に架かる山川橋があり、渡り詰めに東海道五十次水口宿・田町と刻まれた碑が建っている。 先に進むとT字路に突当り、右手角に冠木門の水口宿見附跡がある。
享保年間(1716-36)作成の 「水口宿色絵図」 によると、ここには桝形土居がめぐらされ、木戸や番所が置かれていた。
冠木門には東海道水口宿と刻まれ、その奥には地蔵尊と東見附跡解説碑が建っている。

松元寺 秋葉神社 曳山蔵 水口宿本陣跡
街道は冠木門を左に曲がるが、右に50m程入ると右手に浄土宗の松元寺がある。
松元寺は、明和5年(1768)の創建で、本尊は阿弥陀如来である。
境内には、徳住の南無阿弥陀仏名号碑・七重塔・狩猟鳥獣愛犬之碑がある。
徳住は、文化13年(1816)に信州善光寺の西方寺において徳本の弟子となり、徳本上人の十代弟子の一人となった。
松元寺の北側の道路を挟んだ山復に秋葉神社がある。
秋葉神社は、明和初年(1764)頃、水口宿の各所で大火が起こったため、明和7年(1770)火防の守護神として知られる遠州秋葉神社の火乃火具土大神(ほのかぐづちのおおかみ)を水口の古城山東端の中腹に祀ったと伝えられている。
街道に戻って冠木門の先を進むと、右手に田町・片町の曳山蔵がある。
水口曳山祭は、水口神社の春祭りで、江戸時代中期の享保年間(1716-35)に宿場町であり、城下町であった水口の活力を背景に、町民の力によって創り出された近江東南部を代表する都市型祭礼祭で、 賑やかな曳山巡行と、江戸祭囃子の流れをくむ 「水口囃子」 で知られている。
直ぐ先で国道307号線を渡って先に進むと、左手に水口宿本陣跡がある。
竹垣の間を入って行くと明治天皇聖跡碑・明治天皇行在所御旧跡碑・水口宿本陣跡碑などが建っている。

速玉神社 高札場跡 中央通りの家並み 分岐
水口宿本陣跡の向かいの筋の突当りに速玉神社がある。
速玉神社は、甲賀郡北内貴村の川田神社の旧末社で創建年代等は不詳であるが、旧水口東町の少宮社と称し、明治4年(1871)現在の社名に改めた。
祭神は津速魂命で、境内には正一位壽徳稲荷大明神の境内社がある。
街道に戻って進むと、Y字路の中央に高札場跡があり、小さな高札が復元されている。
水口宿は三筋の通りがあり、ここで二筋に分かれ、右が北通りで、左が中央通りある。ここでは東海道道標が示す中央通りを進んで行くこととする。
高札場跡から左の中央通りに入ると、それほど広くない道に家並みが続き、往時の宿場町の面影を偲ばせている。 直ぐ先でY字路となり、宿場道はここで二筋に分かれている。
左が南通りであり、引き続き、右の中央通りを進んで行く。

曳山蔵 愛宕神社 問屋場跡 善福寺
分岐から直ぐ右手に旅籠町の曳山蔵がある。旅籠町は、慶長6年(1601)作坂町と共に伝馬町に指定された。
水口の曳山は享保20年(1735)に9基の曳山が巡行し、
その後、一町ごとに曳山が建造されるようになり、その数30基余りに達したといわれている。
右手の葛籠町碑が建つところに愛宕神社の祠と常夜燈が建っている。
葛籠町は、東海道を挟んだ両側町で、町名は特産品の葛細工にちなむと言われる。町の東西に辻が南北に通っている。
秋葉神社の向かいの筋角に問屋場跡がある。問屋場跡碑には、次のように刻まれている。
問屋場は、宿駅本来の業務である人馬の継ぎ立てを差配したところで、宿駅の中核的施設として、公用貨客を次の宿まで運ぶ伝馬と、人足を用意しました。 水口宿では、江戸中期以来ここ大池町南側にその場所が定まり、宿内の有力者が宿役人となり、運営にあたりました。
問屋場跡の筋を南に進んで、南通りを越えたところに浄土宗の九品山善福寺がある。
善福寺は、永観2年(984)僧戒算が薬師如来を安置し堂を建てたのが始まりで、その後、火災で焼失したが、永禄4年(1561)僧永秀が再建し、浄土宗に改め、善福寺と称した。
本堂には、慶長5年(1600)水口岡山城落城の際に長束正家の家臣が切腹した際の手のひらの跡があり、血天井と呼ばれている。

一味屋 からくり時計台 大岡寺道標 枎吉稲荷社
街道(中央通り)に戻ると問屋場の向かいに、文政年間(1818-29)創業の一味屋がある。
店内には様々な和菓子が並んでいるが、店先にも幟が出ている 「忍術もなか」 が目を引く。甲賀忍者の秘術を記した巻物を意匠した、小豆餡の最中で近江米や十勝産小豆などの厳選された材料を使っていて美味しい。
直ぐ先の水口宿を南北に横切るやや広い通りに面して、からくり人形の時計台がある。
時計台に設置された曳山のからくり人形は、午前9時・正午・午後3時・午後6時に動き出し、この時計台の脇には、曳山由来碑がある。
からくり時計台を右折すると、北通りと交差する左角に大岡寺道標が建っている。
道標には、「岡観音甲賀三郎兼家舊跡」 「鴨長明發心所」 「江州三十三所二十六番・甲賀三十三所二十二番・大岡寺」 と刻まれている。
大岡寺道標の直ぐ北側に枎吉稲荷社がある。
大正9年(1920)の鳥居が建っているが、創建年代等は不詳である。

大岡寺 日雲宮 大徳寺 三筋の合流点
枎吉稲荷社の先に 「国宝本尊観世音」 と刻まれた大岡寺寺標があり、その先の古城山の麓に天台宗の龍王山観音院大岡寺がある。
大岡寺は、俗に 「岡観音」 の名で知られており、寺伝によれば、僧行基が諸国行脚に際し、大岡山に一宇を建て、自彫の千手観音の木像を安置したのが創まりという。
境内には、行者堂・鐘楼堂・芭蕉句碑、放生池畔に諏訪神社があり、山頂に奥の院がある。
街道(中央通り)に戻って柳町・夷町を通り、イケモト用品店前の十字路を左に入って南通りに出ると、日雲宮がある。
日雲宮の創建年代等は不詳であるが、江戸時代の記録には、水口三箇村(東村・中村・西村)の氏神として記録されており、「神明さん」 と言われて親しまれている。
街道(中央通り)に戻って伴町・平町を通り、マルキ呉服店の脇の路地を抜けて北通りに出ると、その北側に浄土宗の家松山大徳寺がある。大徳寺は、もと禅宗寺院で、「林慶寺」 と称していたが、古城山に岡山城を築いた中村一氏が菩提寺を建立し、淨慶寺としたのが始まりである。その後、徳川家康の庇護を受け、大徳寺に改称した。境内には、家康の腰掛石、甲賀騒動義民の五輪塔などがある。 街道(中央通り)に戻って進むと、三筋の合流点に出る。
この合流点には、秋葉神社・秋葉山常夜燈、曳山を模したからくり時計台がある。

水口石橋 曳山蔵 真福寺 ひとまち街道交流館
三筋が合流した先に東海道と刻まれた石橋がある。
この南側にある近江鉄道本線の水口石橋駅の名は、この石橋に由来する。
近江鉄道本線を東海踏切で渡ると、左手に水口石橋駅があり、右手先に天王町の曳山蔵がある。 曳山蔵脇の細い路地を北に入って行くと、浄土宗の順禮山真福寺がある。
真福寺は、寛仁年間(1017-21)は順礼堂といったが、承応年間(1652-55)に中興され、本尊は如意輪観音である。
境内には、地蔵堂・境内社の小社がある。
街道に戻ると右手に、甲賀市ひとまち街道交流館がある。
ここには甲賀市水口市民センター、河内町曳山蔵などがあり、この奥北側に城塀を模した塀で囲まれた広場があり、その隣に天王町の由来となった八坂神社がある。

藤八幡宮 天王口跡 愛宕神社 明治天皇聖跡碑
先に進んで左手の富田呉服店の先の細い路地を左に入ると、藤八幡宮がある。
藤八幡宮の創建年代等は不詳であるが、美濃部大炊介兼茂が建立したと言われ、祭神は応神天皇である。
街道に戻ると、湖東信用金庫水口支店向かいの筋角に天王口跡解説がある。
江戸時代に此の場所は水口城の東端にあたることから木戸が置かれ、「天王口御門」 と呼ばれた。もともと直進していた東海道も、ここで北へ曲り、北町・天神町・小坂町と城の北側を迂回し、林口五十鈴神社の南で再び当初の道に戻っている。これより木戸内は武家地が広がり、普段は藩士以外一般の通行は制限されていた。
天王口を北に曲がると、左手に北町標柱があり、隣に愛宕神社の小社が建っている。 秋葉神社の先の突当りを左折し、木村歯科クリニック前の十字路を左折すると右手に明治天皇聖跡碑が建っている。
碑には、明治13年(1880)7月13日御昼食と刻まれている。

心光寺 愛宕神社 藤栄神社 稲荷神社
街道に戻って先に進むと、左手に浄土宗の護念山心光寺がある。
心光寺は、延喜3年(903)愚定による開基で、もと天台宗であったが、大永5年(1525)に浄土宗へ改宗している。
この日は法要が営まれており、本堂へのお参りは出来ずに山門近くで失礼した。
心光寺の向かいに天神町の曳山蔵があり、先に進むと右手の民家脇に板塀に囲まれた愛宕神社の小社がある。 直ぐ先の十字路を左折して行くと、その先の信号交差点の左角に藤栄神社がある。
藤栄神社は、水口城内に位置し、水口藩主加藤氏の祖・加藤嘉明を祭神とし、文政12年(1829)に藩によって創建された。
境内には、天満宮旧址碑があり、文政13年(1830)の鳥居脇には明治37年(1904)の巌谷一六の書による領堺石を転用した社標が建っている。
街道に戻って先に進み、突当りを左折すると、右手に稲荷神社がある。

水口石 百間長屋跡 真徳寺 五十鈴神社
稲荷神社の先の右手筋角に東海道道標・水口石がある。
この石は、江戸時代から知られた大石といわれ、浮世絵師国芳が錦絵に描いている。
水口石を右折すると、左手の北邸町集会所の前に百間長屋跡がある。
百間長屋はお城の郭内の武家地にあり、百間(約180m)の棟割長屋には、下級武士たちが隣り合って住んでいた。
この隣には、稲荷神社があり北邸町標石が建っている。
百間長屋跡の斜向かいの筋奥に浄土宗の如林山真徳寺がある。
真徳寺の創建年代等は不詳であるが、表門はもと水口城の郭内に所在した家臣(蜷川氏)屋敷の長屋門を移築したものである。 寺院の表門に改めた際、かなり手が加えられたが、旧城下に残る数少ない武家屋敷遺構の一つとして貴重である。
境内には、大日如来を祀った地蔵堂のほか、町内屋敷の無縁仏を祀った供養塔がある。
街道を進むと突当り右手に五十鈴神社がある。
五十鈴神社は、長寛2年(1164)に設けられた御厨制度により、御厨田の守護神・五穀豊穣の神として伊勢皇大神宮の分霊を勧請したのが始まりであり、江戸時代は、水口城主の信仰が篤かった由緒ある神社である。
境内には、稲荷神社・八坂神社・愛宕神社・秋葉神社などの境内社がある。

水口一里塚跡 西見附跡 妙沾寺 美富久酒造
五十鈴神社の一角に水口の一里塚跡がある。水口町域では今郷・林口・泉の三ヶ所に設けられていたが、明治維新後いずれも撤去された。 林口の一里塚は、これよりやや南方にあったが水口城の郭内の整備に伴い、東海道が北側に付け替えられ、五十鈴神社の境内東端に移った。 この塚は、往時を偲んで修景整備されたものである。ここは江戸日本橋から数えて113里目の一里塚跡である。 水口一里塚跡を左折して直ぐ右に折れるところが、水口宿の西見附跡である。
ここには東海道道標が建っている。
西見附跡を曲がって直ぐ右手に日蓮宗の雙龍山妙沾寺がある。
妙沾寺は、昭和2年(1927)神山長兵衛の開基であり、
境内中央に通称 「淡路阿闍梨」 と言われた日賢の南無妙法蓮華経題目碑が建っている。
先に進むと左手に大正6年(1917)創業の美富久酒造がある。
美富久酒造では、天然醸造法 「山廃仕込」 と現代の技術の粋を極める技術 「吟醸仕込」 で醸造酒を造っている。店先には大正時代の消防ポンプがあり、街道向かいの醸造蔵は、醸造工程など蔵見学が行われている。

柏木神社 北脇縄手 石仏 石仏
美富久酒造の蔵脇筋に柏木神社鳥居があり、その先200m程の突当りに柏木神社がある。
柏木神社は、白鳳元年(673)に日吉宮と称していたが、建久年間(1190-99)源頼朝が上洛の際、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し、以後若宮八幡宮と称され、水口城主の祈願所となった。明治4年(1871)社名を柏木神社と改めた。
祭神は大己貴命・誉田別命で、境内には、大行社・稲荷神社の境内社がある。
街道に戻って先に進むと、左手に北脇縄手と松並木碑がある。
旧北脇村のこの辺りは、真っ直ぐな道が続いていたため、北脇縄手(畷)と呼ばれ、両脇には松並木が続いていた。北脇村の名前は、水口の北に位置していることに由来する。
石碑の傍らには、男女双体道祖神がある。
北脇縄手碑から150m程進んだ、右手の水路脇に石仏が2基祀られている。 更に石仏から50m程先の右手に小社があり、中に大日如来と思われる石仏など5基の石仏が祀られている。
この向かいの水路脇には東屋があり、石仏の直ぐ隣には小社・五輪塔がある。

名残松 柏木公民館 小社 道標
真っ直ぐな道を進んで行くと、右手の甲賀警察署柏木駐在所の前に一本の松が立っている。最近まで3本あったようであるが、枯れたため伐採したようであり、左手先の松は枯れたまま残っている。 程なく右手に柏木公民館があり、この庭先に半鐘櫓のモニュメントが建っている。
このモニュメントを近くで見ると、櫓の中に 「東海道五十三次之内水口名物干瓢」 の広重画を背景に干瓢作りをする人形が回転している。
柏木公民館の斜向かいに北脇本町集会所があり、この脇に愛宕神社と思われる小社がある。 直線の街道をどんどん進んで、南北に横断する柏貴農道の信号交差点を越え、その先で泉地区(旧泉村)に入ると、変則十字路の右手筋角に鉄板で補強された宝暦12年(1762)の道標が建っている。
道標には、「従是山村天神道」 と刻まれている。

小社 泉福寺 浄品寺 名残松・舞込橋
変則十字路の左手には、水路脇に愛宕神社と思われる小社がある。 先に進むと、右手の徳地酒店の筋角に 「国宝延命地蔵尊」 と刻まれた泉福寺寺標が建っており、この筋を入って行くと天台宗の宝珠山泉福寺がある。
泉福寺は、弘仁4年(813)伝教大師最澄の開創で、本尊の延命地蔵尊は国の重要文化財である。境内には、治安3年(1023)坂本日吉大社の分霊を勧請した日吉神社、祇園社、秋葉社、弁財天などの境内社がある。
泉福寺に隣接して浄土宗の蓮臺山浄品寺がある。
浄品寺は、天正年間(1573-92)大徳による開基で、法然上人二十五霊場第2番となっている。
街道に戻って進むと、左手に2~3本の名残松があるところでY字路となり、街道は左手の泉川に架かる舞込橋を渡って行く。
舞込橋手前には、東海道道標があり、渡り詰め右手には日吉神社御旅所碑がある。

泉一里塚跡 横田渡跡 泉川原橋 横田橋
日吉神社御旅所碑の直ぐ先に泉の一里塚跡がある。水口には、泉・林口・今在家(今郷)の三箇所に一里塚があった。
泉の一里塚は、現在地よりやや野洲川よりにあったが、これはそのモニュメントとして整備されたものである。
ここは江戸日本橋から数えて、114里目の一里塚跡である。
一里塚跡から道なりに進んで行くと県道535号線前の冠木門のある横田渡跡に突き当たる。
ここは江戸時代には、東海道の 「渡」 のひとつとして幕府の管理下におかれ、渇水期に土橋が架けられたほかは、船渡しとなっていた.。
冠木門の左手には、万人講中の寄進によって建てられた文政5年(1822)の石燈籠が建っている。
横田渡跡からは、大きく迂回して対岸に出ることとなり、直ぐ先の泉川に架かる泉川原橋を渡って国道1号線へ向かう。 国道1号線に合流すると湖南市へ入り、国道1号線の側道の先で横断歩道橋を渡って、野洲川に架かる横田橋を渡る。
横田橋の歩道は右側だけで、渡り詰めでは階段を下りて左に進んで行く。

横田渡常夜燈 天保義民碑 妙感寺道標 明治天皇聖跡碑
横田橋から三雲駅前の十字路に出ると、街道は右に折れるが、左手は横田渡からの旧道痕跡となるので、左に折れていくと100m程先に横田渡常夜燈が建っている。 横田常夜燈の前に天保義民碑の道標があり、この向かいの筋のJR草津線を越えた左手の丘上に天保義民之碑が建っている。
登り口には天保義民の丘碑があり、
天保義民之碑の入口は金網フェンスで閉じられているが、チェーンを外して近くで見ることが出来る。
街道に戻ると三雲駅前の十字路右角に妙感寺道標が建っている。
道標には、「微妙大師萬里小路藤房卿墓所」 「妙感寺従是二十二丁」 と刻まれている。
妙感寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、南北朝時代、大本山妙心寺第二世微妙大師によって創建された。大師は建武中興の元勲萬里小路中納言藤原藤房卿その人である。
道標の直ぐ先、右手に明治天皇聖跡碑が建っている。
この左のタカヒサビル前に地蔵堂があり、1体の石地蔵尊が祀られている。

道標3基 東海道道標 地蔵堂 おもてなし処
道なりに進んで行くと、仕出し・料理の橋本屋の前に荒川橋があり、橋の渡り詰めに3基の道標が建っている。
道標は、妙感寺道標・立志神社道標・田川ぶどう道道標の3基である。
先に進んでJR草津線を三雲踏切で渡ると、右手に東海道道標が建っている。
道標には、「←石部宿 水口宿→」 「←妙感寺・信楽」 と記されている。傍らには、東海道暦探訪・史跡めぐりマップがあり、この先にある大沙川隧道・弘法杉・西往寺・三雲城址などの解説がある。
右手にJR草津線を見て先に進むと、十字路の右角に2体の地蔵尊を祀った地蔵堂がある。
この十字路左角には、吉見神社社標が建っている。吉見神社は、十字路を左へ200~300m行った所にあるが、雲行きが怪しくなってきたので先を急ぐこととした。
十字路を過ぎると右手に 「おもてなし処」 と表記された休憩所がある。
休憩所には、三雲城址の幟や猿飛佐助甲賀流忍者の里看板などがあり、壁面に 「戦国時代の六角と甲賀忍者」 解説などが貼ってある。

大沙川隧道 弘法杉 西往寺 盛福寺
おもてなし処の先に大沙川隧道がある。
先にあった東海道歴史探訪・史跡めぐりマップによると、大沙川は東海道の上を流れる天井川であり、奈良時代に奈良の仏教寺院や石山寺の造営時、この辺りの木々が切り倒されて禿山となり、大雨の毎に土砂が流れ、川底が上がり天井川になったと言われている。 明治17年3月に県下最初の道路トンネルとして築造され、地元では 「吉永のマンポ」 と呼ばれている。
隧道の上には、推定樹齢750年の弘法杉が聳えている。
隧道を潜った左手から隧道の上に上がと、
弘法杉の前に大杉弘法堂の額が掛かる建屋ががあり、脇には水が流れていない隧道が通っている。
続いて左手に三雲城址解説と浄土宗の吉祥山西往寺寺標が建っている。
西往寺は、貞享2年(1685)吉祥房が中興し、明治期以後知恩院に属した。また、西往寺は甲賀組第一部法然上人二十五霊場第21番であり、境内には一石六体地蔵尊などがある。
街道を先に進むと、左手に浄土宗の金照山盛福寺がある。
盛福寺は、元亀年間(1570-73)慶春が中興し、もと光明寺(現観音寺)の一院であった。
境内には、愛宕神社の境内社のほか、地蔵菩薩半跏像などがある

了安寺 夏見一里塚跡 立場跡 報恩寺
更に街道を進むと、右手に浄土宗の梅見山了安寺がある。
了安寺は、天平年間(729-49)良弁による開基で、もと円満堂といい行基菩薩作の釈迦佛を本尊としていたが、天正年間(1573-91)の兵火により堂宇ともに焼失した。その後、再建して了安寺と改め、阿弥陀如来を本尊とした。
了安寺を出て十字路を過ぎると、左手に夏見の一里塚跡がある。
夏見の一里塚跡は、道路歩道部分にプレートが埋め込まれて標示されるとともに、解説板が建っているのみで遺構は全く残っていない。
ここは江戸日本橋から数えて、115里目の一里塚跡であり、この向かい側に愛宕神社がある。
夏見一里塚跡から70m程先の左手にある夏見診療所辺りが立場跡であり、石部宿一里塚と題された解説板が建っている。
解説板には次のように記されている。
この辺りが夏見の立場と云われ、ここでも何軒かの茶店があり、立場の役割を果たしていた。名物ところてんや名酒桜川を売っていた。
立場跡から程なく右手に浄土真宗本願寺派の龍王山報恩寺がある。
報恩寺は、もと天台宗の寺院であったが、天正年間(1573-92)道味が中興し、浄土真宗に改宗した。本尊は阿弥陀如来である。

覚蓮寺 道標 由良谷川隧道 旧針村
報恩寺の裏門を出ると、浄土宗の雲照山覚蓮寺がある。
覚蓮寺は、建治元年(1275)俊聖の開基であり、もと聖観寺と称していた。本尊は阿弥陀如来である。
街道に戻ると、由良谷川隧道手前の右手筋に昭和10年(1935)の新田道道標が建っている。 由良谷川隧道には、天井川の由良谷川が流れている。由良谷川は上流の竜王山に源を発し、曲流しながら北に向かい、野洲川に入る。川幅2〜6mで、平時は水が無い河川である。
隧道は、明治19年(1886)3月20日の築造であり、この先の草津川の隧道も同日の竣工である。(
由良谷川隧道を抜けると、旧針村の集落に入って行く。

子安地蔵尊碑 針公民館 西教寺 飯道神社社標
先に進むと左手の細い筋角に子安地蔵尊碑が建っている。
この筋を入って行くと浄土宗の和厳山西光寺の裏手に出る。西光寺は、文亀元年(1501)享阿弥の開基で、本尊は阿弥陀如来である。
直ぐ先の右手に針公民館がある。
公民館前には、東海道歴史探訪・史跡めぐりマップ、針文五郎顕彰碑解説がある。
針の文五郎は、天保義民之碑にも解説があったが、油日の惣太郎、上野の九兵衛、氏川原の庄五郎、深川の安右衛門、岩根の弥八、松尾の喜兵衛、杣中の平治、宇田の宗兵衛、市原の治兵衛、三上の平兵衛らと共に檻に入れられて江戸へ送られた内の一人である。
針公民館の先の左筋を入って行くと、真宗本願寺派の西教寺がある。
西教寺は、享徳12年(1463)了覚の開基である。
街道に戻ると、十字路左角に飯道神社社標が建っている。
飯道神社は、この筋を200m程進んだ林の中に有り、大同2年(807)の創祀といわれ、古来針村小字飯道の森に所在していた。祭神は素盞嗚尊である。

神社 北島酒造 家棟川橋 甲西駅
十字路を越えた左手に建屋が背を向けており、回り込んでみると、建屋の中に小社が祀られている。 直ぐ先左手に文化2年(1805)創業の北島酒造がある。
昭和25年に売り出した銘酒 「御代栄」 は、万葉集第18巻・大伴家持の歌に由来するという。「天皇の 御代栄えむと 東なる 陸奥山に 黄金花咲く」 (すめろきの みよさかえむと あづまなる みちのくやまに くかねはなさく)
北島酒造の先に、家棟川に架かる家棟川橋がある。家棟川は、かつては天井川であり、ここに家棟川隧道があった。長さ21.8m、高さ3.6m、幅4.5mの花崗岩切石積みで、明治19年(1886)3月に築造されたが、昭和54年(1979)に河川改修工事により撤去された。
家棟川橋の渡り詰めに隧道の扁額が残されている。
本日は、家棟川橋で終了し、最寄りのJR草津線甲西駅から水口へ出て宿泊する。

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