メニュー
前へ   石部~草津 次へ   大津~京都三条

東海道   (草津~大津


平成30年3月11日(日)   ☀    草津~大津    13.0㎞
今年は1月に大雪の日があったり、2月に異常な寒さが続くなど、安定した天候が少なく街道歩きは足踏み状態であったが、3月に入りようやく晴天に恵まれ、気温も上昇してきたので、草津から昨年の続きを再開することとした。
草津から京都までは、平成27年11月に中仙道で歩いているので2回目になるが、新たな気持ちでゆっくりと歩いてみたい。

浄泉寺 新宮神社 常徳寺 願林寺
南草津駅から街道に出て、前回終了した遠藤権兵衛家から先に進むと、街道が右にカーブする手前左手に真宗大谷派の玉川山浄泉寺がある。 浄泉寺は長禄4年(1460)円実による開基である。野路城主・黒川駿河守宗次は本願寺第八代法主・蓮如上人より御化導を受けて得度し、法号を円実と賜わっている。
日曜日なので山門は閉ざされており、境内に入れなかったので、前回の様子を掲載する。
浄泉寺の直ぐ先左手筋に新宮の鳥居が建っており、鳥居を潜って100m程進むと左手に新宮神社がある。
新宮神社の草創は、奈良時代の高僧行基によって野路寺創立の時、鎮護社として天平2年(730)に創建され、祭神は事解男命(ことさかおのみこと)・速玉男命(はやたまおのみこと)で別名を野路神社とも言う。境内には大永3年(1523)に建立された本殿ほか、古宮神社・八幡神社などの境内社がある。
新宮神社の向かいに曹洞宗の玉川山常徳寺がある。
常徳寺は奈良時代の高僧行基によって天平年間(729-49)ころ創建され、明和5年(1768)元雷によって中興された禅寺である。境内には観音堂があり、その向いにカラフルな地蔵尊群が安置されている。
街道に戻ると右手に寺標があり、奥に進むと長屋門の山門の真宗大谷派の白萩山願林寺がある。
願林寺は永正9年(1512)祐正による開基でであり、ご本尊は阿弥陀如来である。
山門は、旧膳所城の長屋門を移築したものであり、境内には立派な松が枝を伸ばしている。

野路在郷軍人用地碑 地蔵堂 野路萩の玉川 弁天池
街道に戻ると右手筋門に野路在郷軍人用地碑fが建っている。
この付近は野路という地名であり、この辺りに在郷軍人の用地があったようである。在郷軍人は郷土に在住する軍人・団体で、普段は民間人として何らかの生業につき、必要に応じて召集されたものである。
先に進むと右手にレンガ造りの地蔵堂が、街道に背を向けて建っている。
地蔵堂内には着色された5体の地蔵尊が安置されており、子守地蔵尊と呼ばれているようである。
街道を進んで県道43号線を越えると右手に野路萩の玉川がある。
野路は平安時代から鎌倉時代にかけて宿駅として栄えた所であり、この野路に玉のような綺麗な湧水が有ったことから 「玉川」 と呼ばれ、「日本六玉川」 の1つに数えられていた。
ここには復元された湧水があり、往時の姿を偲ばせている。
街道を進むと弁天池に突き当たり、浮島に向かって細い橋が架かっている。
この橋は浮島に架けられた弁財天参道橋であり、前回(H27.11)の中仙道歩きでは鎖で封鎖されていたが、今回は渡ることができた。
この弁財天社は琵琶湖の竹生島から勧請した弁財天が祀られている。

常夜燈 坂道 地蔵堂 家並み
弁天池を過ぎて狼川を狼川橋で渡り、信号交差点を越えると、左手の狼川児童遊園脇に常夜燈が建っている。
この常夜燈は前回(H27.11)通った時には、先に見えるマンションの前にあったものである。
手前の緑のフェンスには道標が貼られ、傍らには大亀川の渡し標柱が建っている。かつては大亀川と呼ばれ、大亀川の渡しがあったところである。
狼川児童遊園を過ぎると、街道は緩やかな坂道となり、日本黒鉛工業㈱瀬田工場の先で下り坂となっていく。 日本黒鉛工業㈱瀬田工場を右に見て下り坂になると、右手筋角に地蔵堂があり、中に一体の地蔵尊が祀られている。 地蔵堂の先を進むと長屋門の家や虫篭窓の付いた家などが並んでいる。

新福寺 道標 超明寺 月輪寺
長屋門の家の先右手に浄土宗の寶國山新福寺がある。
新福寺は延宝4年(1676)編誉によって中興され、ご本尊は阿弥陀如来である。境内には延命地蔵尊を祀る地蔵堂があるが、閉められているため拝顔できない。
新福寺を過ぎると月輪自治会館の手前の左に入る筋の角に道標が建っている。
道標には 「名勝 月輪大池 南約1粁」 と刻まれている。月輪は、月輪池に由来する地名で、この池に映った美しい月の姿から名付けられたとも、月輪殿九条兼実の荘園内にあったからともいわれている。
道標の向かいの筋を入っていくと浄土真宗本願寺派の養老山超明寺がある。
超明寺は貞享4年(1687)了空の開基で、ご本尊は阿弥陀如来像である。
街道に戻ると月輪自治会館のすぐ先左手に曹洞宗の普門山月輪寺がある。 月輪寺は安永2年(1771)長野助右衛門が行者堂を建立したのが始まりで、文久3年(1863)徳川家茂が休息時に寺号月輪寺を下賜したという。
参道口には、明治天皇御東遷御駐輩之所碑・新田開発発祥之地碑・地蔵堂・道標 「東海道 濱道」 がある。

東海道立場跡 一里山橋 一里塚跡 道標
月輪寺の先の信号交差点を渡ると、左手の月輪池の前に東海道立場跡碑が建っている。
碑には、「月輪池(上下二池有)、大萱地、月輪禅閣藤原兼實の荘園があった関係か、道中旅人が池に映る月の影に感嘆して名付けたかは不明」 と刻まれている。
一里山一丁目交差点を越えると長沢川に架かる一里山橋がある。 一里山橋を渡り、更に小川を渡って緩やかな坂道を上った先の信号交差点左角に一里塚跡碑が建っている。
ここにあった一里塚は、大津と草津の間に位置し、大きな松が植えられていたが、明治末期に取り除かれてしまった。
ここは江戸日本橋から数えて120里目の一里塚である。
一里塚跡碑前の通りを挟んだ向かいの石垣の上に道標がある。
道標は十字に刻まれ、上に 「三条大橋迄5里余り」、下に 「江戸日本橋迄120里余り」、右は 「膳所藩札場より大萱港常夜燈に至る」、左は 「旧朝倉道信楽より伊勢・桑名に至る」 と刻まれている。
道標の先から下り坂となる。

地蔵堂 野上神社旧蹟 西行屋敷跡 正善寺
街道を進んで大江四丁目交差点を越えた左手に地蔵堂がある。ここは大江という地名で、平安前期以来、朝廷の文章道(史学・文学)を司る家柄として知られる貴族であった大江氏(大江千里)が、この地を開発されたことから地名となったと云われる。 すぐ先で街道が右にカーブするところに説明板があり、その左手路地を入ると、大江東自治会館前に野上神社旧蹟がある。
ここは大江の地を荘園としていた平安時代前期の歌人 「大江の千里」 の奥方が住んでいたところで、村人がその跡地に神社を建てたものである。
街道に戻って進むと右手段上の瀬田小学校脇に平安時代末期の歌人・西行法師の住んでいたとされる屋敷跡がある。
ここに説明板はないが、街道に出ると大江東北自治会館の先の十字路角に案内板がある。この西行屋敷跡碑の脇には、忠魂碑などが建っている。
十字路を左折すると左手路地を入ったところに、真宗佛光寺派の玉照山正善寺がある。
正善寺の創建年代等は不詳である。

地蔵堂 近江国庁跡 御霊神社 浄光寺
街道に戻ると左手小川沿いに地蔵堂がある。地蔵堂の斜向かいには、南無妙法蓮華経題目碑があり、門扉が閉ざされたお堂が建っている。 街道を進むと東海道標識のあるT字路があり、右が街道であるが、直進すると100mほど先に近江国庁跡がある。
ここでは国司が近江国の統治と都との連絡を行っており、前殿・後殿と東西の脇殿という建物を中心に東西約200m、南北約300mの区画からなっていた。
近江国庁跡の東側に隣接して、近江神宮のご祭神である38代天智天皇の御子大友皇子を主祭神とする御霊神社がある。
御霊神社は、社伝によると白鳳4年(675)大友皇子の第二子興多王の指図により皇子の御霊を奉斎したのが創始と言われている。
境内には、野上神社と稲荷神社の境内社がある。
街道に戻ってT字路を右に進むと、右手に浄土宗の帰法山浄光寺がある。
浄光寺は寛文元年(1661)に中興された寺院で、木造阿弥陀如来立像は滋賀県の重要文化財となっている。
山門脇には、道祖神と大日如来が安置された小祠があり、境内には二つの地蔵堂に地蔵尊が半円形に向かい合って安置されている。

大場の桜 芦浦街道道標 地蔵堂 和田一号橋
先に進むと左手に大きな山桜の木が立っている。この山桜は、推定樹齢約200年の古木で、旧東海道と芦浦街道との分岐点付近にあり、江戸時代の参勤交代の行列を見てきた古木である。 大場の桜の先でT字路に突き当たると、斜め向かいの北に延びる筋角に、昭和55年(1980)の旧芦浦街道の道標が建っている。
芦浦街道は、東海道の枝道のひとつで、近江国を南北に貫いていたが、浜街道が整備されると、その役割を譲っていった。
旧芦浦街道の脇に㈱内田組があり、その前に地蔵堂がある。脇には大きなタヌキ像が建っている。 ㈱内田組の前の信号交差点を渡ると、高橋川に架かる赤い欄干の和田一号橋がある。

檜山神社 正法寺 道標 建部大社
和田一号橋を渡ると、左手の小山の上に建部大社の境外末社である檜山神社がある
参道途中には横尾山1号墳があるが、これは京滋バイパス建設に伴って移設されたものだという。
檜山神社の先を進むと右手に日蓮宗の八景山正法寺がある。
正法寺は昭和8年(1933)信暢による開基であり、境内には日蓮上人像があり、やや離れたところに鉄筋コンクリート造の本堂がある。
正法寺の先で東海道は斜め左の小道に進んで県道16号線に合流する。
この分岐に山村石材店があり、この石材店が造ったと思われる道標が建っており、「左東海道 右瀬田唐橋」 と刻まれている。
県道16号線に出て東海道は右に進むが、ここを左に進むと建部大社がある。
建部大社は、景行天皇46年(316)に御妃布多遅比売命(ふたじひめのみこと)が神崎郡建部の郷に日本武尊の神霊を祀ったのが始まりと云われ、その後、天武天皇白鳳4年に近江国の中心であった瀬田の地へ遷祀されたという。本殿には日本武尊を祀り、境内には菊花石・菊紋壺・本殿を囲む左右に八つの摂社などがある。

安養寺 うなぎ料亭重山 妙真寺 本陣跡
建部大社の神門から参道を横切って県道16号線に出ると正面に浄土宗の致臺山安養寺がある。
安養寺は、寛正5年(1464)円諦による開基であり、ご本尊は阿弥陀如来で境内には地蔵堂がある。
街道に戻ると、右手に室町時代創業のうなぎ料亭重山がある。
店頭には十三重塔が建ち、脇には上之町地蔵尊を祀る地蔵堂がある。
うなぎ料亭重山の直ぐ先の唐橋東詰交差点を右に折れると、日蓮宗の永光山妙真寺がある。妙真寺は、建長5年(1253)日蓮上人による開基であり、境内には妙見大菩薩を祀る御堂と稲荷社の境内社がある。 妙真寺の直ぐ北隣に浄土真宗本願寺派の夕照山西光寺がある。
西光寺は慶長7年(1602)了空による開基であり、山門脇には明治29年(1896)の記録的な大雨による浸水の記録を示す石柱が建っている。

芭蕉句碑 常夜燈 橋守地蔵尊 雲住寺
妙真寺の前の瀬田川縁に芭蕉句碑 「五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋」 が建っている。瀬田の唐橋は、近江八景の一つ「瀬田の夕照」の地として有名で、芭蕉翁も何度か訪れたことがある。琵琶湖やあたりの景色のすべてが、五月雨にかすんでいる中で、さすがに瀬田の唐橋だけは、雨にも隠されることなく、長々と横たわって見えている。
この句は、貞享5年(1688)に詠まれたものである。
瀬田の唐橋の東詰めには、常夜燈・山崎茶酔句碑があり、その傍らに地蔵堂・道標・雲住寺寺標が建っている。 道標に従って川沿いを進むと地蔵堂があり、中に橋守地蔵尊が安置されている。地蔵尊は、昭和51年の橋脚工事中に地下から出現したもので、予め唐橋下から何か出現すると予言していた霊能者によると薬師如来であるとのことで、滋賀県は唐橋の中央に向けて小社を建て、通称を橋守地蔵として祀ったという。この向かいには瀬田の唐橋碑が建っており、裏面に俵藤太百足退治伝承の地と刻まれている。 橋守地蔵尊の東側に浄土宗の龍光山秀郷院雲住寺がある。
雲住寺は応永15年(1408)の開基であり、境内には百足供養堂の六角堂があり、これが俵藤太が退治した百足の供養堂である。

瀬田橋龍王宮 瀬田の唐橋 大田瓦店 縁切地蔵大菩薩
雲住寺の南西に隣接して瀬田橋龍王宮がある。鳥居の先に簡素な神門があり、その奥に龍王宮と秀郷社が並んで建っている。
昔から瀬田の唐橋の下には龍神が住むという伝説があり、室町時代の1440年頃に現在地に橋を架け替えたとき、龍神をご神体として祀ったという。
瀬田の唐橋は、近江八景 「瀬田の夕照」 (せたのせきしょう) で有名であり、別名 「瀬田橋」や 「長橋」 とも呼ばれ 「唐橋を制するものは天下を制する」 と言われ、古来より京都の喉元を握る交通・軍事の要衝として重視された。
唐橋中之島には、西沢十七星碑・瀬田唐橋架換記録碑・瀬田の唐橋説明などがある。
唐橋西詰交差点を渡ると、右手に大田瓦店があり、店頭に愛知県の福應寺本堂の鬼瓦、大田瓦店向かいの楼閣で使われていた瓦などが並んでいる。
向かいの楼閣は、野口家が100年ほど前に建立したもので、通称 「龍宮城」 と称されtが平成21年に解体されたという。
先に進んで京阪電気鉄道石山坂本線の踏切を渡ると、左手に逆縁之縁切地蔵大菩薩碑がある。
碑には蓮如上人御影休息所・地主之守大神・方位之守大神とも刻まれている。
ここは旅籠伏見屋があったところで、ここで蓮如上人が休息したという。

長徳寺 御霊神社 東海道本線 地蔵堂
直ぐ先に鳥居川交差点があり、街道は右折するが、左折すると右手に真宗仏光寺派の長徳寺がある。
長徳寺は、長徳元年(995)の開基で天台宗であったが、
嘉暦3年(1328)に了源上人により中興され、真宗に改宗した。
長徳寺から更に南に170~80mほど行ったところに、御霊神社がある。御霊神社は、近江神宮のご祭神である天智天皇の御子・大友皇子(弘文天皇)をお祀りしている。大友皇子は即位前に壬申の乱(672)の際、この神域に隠れ、25歳で自害するが、大友皇子軍の遺臣や地元の人々は、皇子の霊を慰めるため、白鳳4年(675)に御霊宮という神社を創建した。境内には、明治4年(1871)に解体された膳所城の高麗門が移築されている。 街道に戻って進み、国道1号線の高架下をくぐり、京阪電気鉄道石山坂本線の踏切を渡り、その先で東海道本線の高架下を側道(歩道)でくぐっていく。 東海道本線の高架下を潜った直ぐ先の横断歩道右手の路地に地蔵堂がある。
地蔵堂には綺麗に色付けされた地蔵尊と自然石の地蔵尊が安置されている。

今井兼平の墓 農業試験研究発祥の地碑 名残松 地蔵堂
地蔵堂の直ぐ先で街道を横断して流れる盛越川の脇に今井兼平の墓標識が建っている。
墓標識から石山駅前を通り500m程入ると盛越川沿いに今井兼平の墓がある。今井兼平は木曽義仲の腹心の武将であり、義経軍に敗れ討ち死にした義仲の後を追って、口に刀を含んで馬から飛び降りて自害した。
ここにある墓碑は篠津川の上流の墨黒谷から寛文6年(1666)に移設したものである。
街道に戻って進むと、右手の大津市立粟津中学校校庭の前に、農業試験研究発祥の地碑が建っている。
明治28年(1895)、この辺りに滋賀県農事試験場が開設され、植物ウィルスが昆虫の媒介によって伝染されることを発見した世界的な研究や、日本稲作史上初めて人工交配により、新しい品種を育成、実用化に成功したことなど、農業の発展に貢献した試験研究が行われた。
大津市立粟津中学校前の旧東海道は、膳所城下町の南総門から鳥居川の間に美しい松並木が続いており、近江八景の一つ 「粟津の晴嵐」 として知られた名勝であった。
歌川広重の浮世絵などにも、湖辺に城と松並木が続く風情ある景色として描かれている。
粟津中学校を過ぎると晴嵐交差点角に地蔵堂がある。
地蔵堂には目鼻を描かれた一体の地蔵尊が安置されている。

膳所城勢多口総門跡 石山坂本線踏切 若宮八幡神社 妙福寺
街道が左に枡形状に曲がる右手角に膳所城(ぜぜじょう)勢多口総門跡碑が建っている。
ここは江戸時代に膳所城勢多口総門が建っていた所で、本多氏六万石の膳所城下町の南入口に当たり、ここに番所を設けて旧東海道を通って京へ向かう旅人に監視の目を光らせていた。
碑の近くに地蔵堂があり、一体の地蔵尊が祀られている
街道を左に折れて進み京阪電気鉄道石山坂本線の踏切を渡ると左手線路脇に地蔵堂がある。
この地蔵堂には自然石の地蔵尊が7基安置されている。
地蔵堂の直ぐ先右手に若宮八幡神社がある。社伝によると壬申の乱(672)の3年後の白鳳4年(675)に天武天皇が宇佐八幡の神のお告げにより、我が子仁徳天皇の木像を下賜され社殿を造営したことが、この神社の始まりだと云われている。
鳥居の先の表門は膳所城の犬走り門で、明治3年(1870)の膳所城取壊しの際に移築された高麗門である。
若宮八幡神社の先を右に直角に曲がって進むと左手に日蓮宗の徳栄山妙幅寺がある。
妙福寺は、慶長年間(1596-1615)の創建である。

専光寺 光源寺 戒琳庵 篠津神社
妙福寺の先で京阪電鉄の瓦ヶ浜駅前踏切を越えると左手に臨済宗の専光寺がある。
専光寺は、寛正6年(1465)正善による開基であり、ご本尊は阿弥陀如来である。
続いて街道左側に真宗佛光寺派の膳所山三昧院光源寺がある。
光源寺は、康永2年(1343)光心による開基であり、ここには岩倉具視の継室の岩倉槇子(旧姓野口)の分骨が、岩倉家が建てた野口家累代の墓に合葬されているという。
街道を外れて光源寺の前の筋を右に入ると左角に戒琳庵がある。
この戒琳庵は、芭蕉門弟浜田珍碩の洒落堂の跡といわれ、庭には芭蕉句碑 「木のもとに汁もなますも桜哉」 がある。
街道に戻ると左手に篠津神社がある。
篠津神社の創始年代は不詳であるが、室町時代の中頃には鎮座していたと言われ、古くは牛頭天王と称し地元の氏神である。
神社の表門である高麗門は、旧膳所城北大手の城門を、明治3年(1870)に移築したものである。
境内には、多岐理姫神・市杵嶋姫神・松尾神など数多くの境内社がある。

晴耕雨奇亭跡 大養寺 膳所神社 膳所城跡公園
街道に戻ると突き当りの枡形角に晴耕雨奇亭跡がある。ここは、奥村管次寿景(1788-1840)という膳所の名金工師初代管次の家があったところである。管次は湖を一眸する景勝のこの地に居を構え、金銀銅鉄器類をはじめ櫓時計、鉄砲などを制作した。頼山陽、貫名海屋なども来遊し、山陽は晴耕雨奇亭と名付け額を揮毫して与えた。管次は53歳で病没し、唯伝寺に葬られた。 枡形を先に進んで、京阪石山坂本本線の手前の十字路を右折して行くと、右手に地蔵堂があり、その先左手に真宗佛光寺派の拱養山文応院大養寺がある。
山門は、高禄又は由緒ある武家屋敷等の長屋門で、膳所の六門の一つである。
大養寺の直ぐ先の信号交差点を左折すると、膳所神社がある。
社伝によると、天智天皇の大津京遷都のとき、膳所の地が御厨(みくりや)の地と定められ、天武天皇の代に大和国から食物の神を移して祀ったのが膳所神社の始まりと云われる。
鳥居の先の表門は、旧膳所城の二の丸より本丸への入り口にあった城門で、明治3年(1870)の膳所城取り壊しの際に移築された。
信号交差点を右折すると、琵琶湖に面して膳所城跡公園がある。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は、翌年、築城の名手と言われた藤堂高虎に膳所城を築かせた。この城は天下分け目の合戦後、最初に作られた城で、築城には8人の奉行が当たった。
公園入口には大手門が復元され、公園中央に本丸の石垣が僅かに残っている。

縁心寺 和田神社 旧東海道道標 響忍寺
街道に戻って本丸町の信号交差点を先に進むと左手に浄土宗の梅香山縁心寺がある。縁心寺は、慶長7年(1602)に本多康俊が父忠次の追善のため三河国西尾(愛知県西尾市)に建立したもので、元和3年(1617)に膳所藩への移封に伴い一緒に移ってきた。
ここは膳所城主菩提所であり、境内には武家から庶民まで信仰を集めた八臂弁財天が祀られている。
続いて街道の左手に和田神社がある。
和田神社は、白鳳4年(675)の創建で、本殿は一間社流造で国の重要文化財に指定されており、表門は膳所藩の藩校 「遵義堂(じゅんきどう)」 の門を移築したものである。
境内には推定樹齢600年という大銀杏があり、石田三成が関ヶ原合戦後、捕らわれて京へ護送される途中、休息の際に繋がれた樹であると伝わっている。
街道に戻って先に進むと、左手に東海道道標があり、突き当りの寺の前を右折して行くよう道筋が示されている。 東海道道標に示されたように街道の突き当りに真宗大谷派の春台山響忍寺がある。
響忍寺の山門は長屋門で、藩家老村松八郎右衛門の屋敷門を移築したものである。
響忍寺の前の東海道は、江戸時代には、京都と江戸を結ぶ国内第一の幹線として、行き交う旅人で賑わっていた。また、この道は西国三十三観音巡礼の札所、三井寺と石山寺を結ぶ巡礼の道としてもよく利用された。

石坐神社 桃源寺 膳所城北総門跡 義仲寺
街道は突当りの響忍寺を遠巻きにするように半円を描いて響忍寺の裏手に抜けている。
裏手に回って直ぐ左手に石坐神社がある。この神社は延喜式に近江国滋賀郡八社の一に数えられており、朱鳥元年(686)の草創と伝わっている。本殿は文永3年(1266)の建立で滋賀県指定文化財となっており、境内には弁財天社・稲荷社・石神社などがある。
石坐神社の直ぐ先右手に臨済宗永源寺派の吉田山桃源寺がある。
桃源寺は、永禄13年(1570)の開基で、もと浄居寺といい、ご本尊は阿弥陀如来である。
境内には、琵琶湖子安地蔵尊、過去歴代最長の住職岩城大和尚の鎮魂碑などがある。
石坐神社の先で街道が枡形になる右手角に膳所城北総門跡碑が建っているが、他には何も遺構は残っていない。
この膳所城北総門跡碑の斜向かいに地蔵堂があり、可愛い地蔵尊が色付けされている。また、枡形道を抜けた十字路左奥の大津板紙㈱の塀際に街道の地蔵尊を集めたと思われる地蔵堂がある。
枡形道を抜けると、門扉の閉ざされた福正寺・光林寺があり、続いて左手に義仲寺がある。
義仲寺は無名庵ともいい、元暦元年(1148)に木曾義仲の死後、巴御前が草庵を営み供養を続けたので巴寺と称したのに始まると言われ、戦国時代に荒廃したが天文22年(1553)近江守佐々木義文によって再興された。
山門脇には、巴御前を弔うために祀った巴地蔵があり、境内には義仲供養塔・芭蕉句碑などがある。

平野神社 地蔵尊 西方寺 明智湖水渡碑
義仲寺を過ぎて、京阪電鉄石山坂本線の踏切を超えると、左手筋に社標と常夜燈があり、その先に平野神社がある。 平野神社は、天智天皇が大津宮へ遷都されたとき、都の3里以内に守護神として祭祀され、藤原鎌足により創建されたと言われている。
御祭神は大鷦鷯皇命(おおささぎのみこと)・猿田彦命であり、境内には愛宕神社・天満宮などの境内社がある。
街道に戻って進むと左手の水路脇に風化の進んだ地蔵尊が建っている。 地蔵尊の直ぐ先左手に浄土宗の月見山往生院西方寺がある。
西方寺は、文禄元年(1592)春甫による開基であるが、詳細は不明である。
境内には茶室、弁財天堂があり、本堂前の水子地蔵尊の周りには古い石仏が祀られている。
西方寺の先で片道2車線のやや広い道路に出るが、ここを右に進んで琵琶湖畔に出ると、滋賀県立琵琶湖文化館の近くに明智湖水渡碑が建っている。
ここは明智光秀の弟・左馬之助光春が、兄光秀の死を聞いて急ぎ坂本城へ引き返す途中、琵琶湖を渡り坂本に帰ったところである。

成覚寺 清源寺 生水地蔵尊 華階寺
街道に戻って片道2車線の道路を横断して進むと、右手に浄土宗の正信山成覚寺がある。 成覚寺は、慶長3年(1598)法阿による開基である。山門は閉じられており境内に入ることは出来なかった。 続いて吾妻川を常盤橋で渡ると、街道左手に浄土真宗本願寺派の清雲山清源寺がある。
清源寺は、文亀元年(1501)覚専による」開基である。山門は閉じられており境内に入ることは出来なかった。
清源寺の隣に生水地蔵尊がある。
由緒など詳細は不明であるが、立派な地蔵堂が建てられていることから、地元の人々に大事にされてきたようである。
街道を進んで中央大通りを左折すると浄土宗の旭光山華階寺がある。
山門前には 「俵藤太矢根地蔵月見の石」 と刻まれた碑がある。境内には、俵藤太(藤原秀郷)が三上山でムカデを退冶した大矢で彫ったという地蔵尊が祀られている。また、大通りの中央分離帯には、かつて華階寺の敷地であったが都市計画で道路になったので、そのまま残した推定樹齢400年のイチョウがある。

天孫神社 唯泉寺 街並み 露国皇太子遭難地碑
華階寺の東隣に天孫神社がある。
天孫神社は、50代桓武天皇が近江大津宮に行幸の際、琵琶湖南部鎮護の神として彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)を勧請したことに始まり、例祭は湖国三大祭の一つで滋賀県無形民俗文化財に指定されている。
境内には八幡神社・天満宮・日若宮・稲荷社・輻輳神社などの境内社がある。
街道に戻って中央分離帯のある大通りを渡ると左手に真宗大谷派の竹越山唯泉寺がある。
唯泉寺は、弘仁2年(811)道河による開基で、慶長3年(1598)に天台宗から真宗に改宗している。
唯泉寺の山門は閉ざされており、境内に入ることは出来なかったが、山門脇に地蔵堂があり大日如来・地蔵尊が安置されている。
街道は直線の道に赴きある家が点在し、明治38年(1905)建築の大津魚忠は、国の登録有形文化財となっている。また、大津魚忠の先の十字路を右折すると、左手の民家と民家の間の狭いスペースに蛭子神社がある。 街道を進むと左手路地角に此附近露国皇太子遭難之地碑が建っている。
ここは明治24年(1891)訪日中の帝政ロシアのニコライ皇太子を警備の津田三蔵巡査がサーベルで切り付けた 「大津事件」 の発端となった場所である。
これが政府と司法の対立となり、死刑を主張する政府に対し、無期徒刑の判決を下し司法権の独立を貫き通した。

札の辻 九品寺 大津宿本陣跡 長安寺
先に進んだ京町一丁目交差点は、江戸時代に高札が建てられた四つ辻であった。
旅人たちに馬や人足を提供する大津宿の人馬会所もこの角にあった。ここは、東海道と北国街道(西近江路)の分岐点でもあり、京都から来た東海道は東へ向かい、西へ行くと北国海道であった。
ここには大津市道路元標が建っている。
札の辻を左折すると、左手に浄土宗西山派の江西山九品寺がある。
九品寺は、健保3年(1215)長西によって開基され、天和年代(1681-83)俊教比丘がこれを中興し不退常念仏道場とした。その後、明治11年(1878)大谷西方寺を併合して現在に至っている。
街道に戻ると程なく左手の滋賀労働局の立看板のところに大津宿本陣跡がある。
大津宿には、大坂屋嘉右衛門(大塚本陣)、肥前屋九左衛門の2軒の本陣と播磨屋市右衛門の脇本陣1軒が八丁筋にあった。大塚本陣のあったこの場所には、明治天皇聖跡碑があるのみで遺構は残っていない。
先に進んで春日町信号を過ぎた右手路地を入ると、京阪電気鉄道京津線を渡った先の山腹に時宗の長安寺がある。
長安寺はかつて関寺と称し、その創建年代は不詳であるが、逢坂の関の近くにあった寺院であり、鎌倉時代、時宗宗祖一遍上人が遊行し、念仏踊りを奉納した。その後、慶長の兵火で罹災後、名称を長安寺と改めた。参道には、日本最古の宝塔 「牛塔」 があり、境内には小野小町・一遍上人・超一房の各供養塔がある。

妙光寺 寺田屋お登勢実家跡
街道に戻ると、続いて右手の京阪電気鉄道京津線を渡ったところに日蓮宗の水上山妙光寺がある。
妙光寺は、天正元年(1573)日性による開基であり、山門前に妙見大菩薩碑、境内には鳥居のある妙見宮がある。
本日の街道歩きは、妙光寺で終了したが、今宵の宿泊ホテルへ向かう途中、丸屋町商店街の中で寺田屋お登勢実家升屋跡を見つけた。お登勢は、伏見の船宿「寺田屋」六代目主人伊助の妻となり、以後、多くの幕末の志士の面倒をみている。

前へ   石部~草津 次へ   大津~京都三条