この草津川跡地公園は、平成14年に流路の付替え工事が完成し、廃川となった旧草津川を整備したものです。天井川であった旧草津川が、いつ頃からこの場所を流れるようになったのか知る由はありません。江戸時代に草津宿が整備されると、旧草津川の堤防整備や、川底の浚渫(しゅんせつ)などが行われるようになりました。
 江戸時代中頃より、上流の荒廃した山々から土砂の流出が続き、長年に渡り土砂が堆積したことにより、川底が周辺民家の屋根よりも高くなる天井川化が進んだことは、歌川広重の浮世絵からもうかがえます。江戸後期には、草津川の川底が高くなり、中山道口から草津川堤防への上り坂が急になったため、脇道の造成を膳所藩に願い出ています。旧草津川は、雨が降らないと水の流れない砂川でしたが、一旦大雨になると、堤防の決壊を招くほどの水量が流れる川でした。、

 草津宿は、江戸時代に東海道と中山道の合流する交通の要衝として栄えました。これら二つの街道は、江戸方面から草津宿への出入り口が、それぞれ草津川の渡し場になっていました。
 中山道の渡し場は、追分道標(東海道と中山道の分岐点道標)の近くで、草津宿の江戸川の出入り口に位置し、現在の市道宮町渋川線(商店街通り)のマンボ(トンネル)の上あたりにありました。また、東海道の渡し場は、草津宿東端の横町道標の近くで、草津宿の江戸側の出入り口に位置し、現在の市道大路16号線あたりにありました。
 旧草津川は、川底が周辺民家の屋根よりも高い天井川であり、普段は、水の無い砂川でした。そのため「徒歩渡り」といって水の無い川底を歩いて渡り、少し水が残っているところは、簡易な板が渡されていたようです。
 天保3年(1832)の「橋銭川越賃定書」によれば、水が無くても、1人3文の川越賃が徴収されていたとの記録があります。水が流れている時は、人に担がれて渡りましたが、水嵩に応じて、1尺(約30㎝)で8文、1尺5寸、2尺、2尺5寸と、段階的に増加して、3尺で32文の川越賃を徴収され、時には、川留めになることもありました。
 天井川の渡し場は、草津宿の特徴的な光景として、数多くの浮世絵や名所図会に描かれており、当時の様子がうかがえます。

草津川の渡し場説明

草津川の渡し場説明

de愛広場(草津川跡地公園)となった旧草津川

de愛広場碑

de愛広場(草津川跡地公園)となった旧草津川

いろはモミジ方向の旧道痕

草津川橋

草津川橋橋標