抑 赤坂山6町7反余は 徳川中期より下柴下草採立入場として手原区が権利を有し、明治22年の頃、当時の現住民72名の共同名義にて仮登記。以来手原の共有山として区長管理の下に玉梅社等の協力を得て、その保安に努めて来たのである。
 この間明治42年金勝山紛争のため全山を皆伐これが買戻金に充当。その後植栽を行い葉山佐瀬両河川の決潰時の用材又は潅漑用の諸施設の資材資源として、区の財政に多大の寄与をなして来た。
 然るに名神高速道路の開通に伴い、仝付近の開発頓に進み、昭和43年開発事業団の要請に応ずるの止むなきに至り、永年の愛着を捨て譲渡に決する。
 即ち茲に永く全区民の管理愛育せし赤坂山を永遠に記念し、区民の福利増進施設として手原赤坂会館と命名。之を建設する。
   昭和44年9月23日

赤坂山記念碑

明治8年5月厚進学校跡
明治19年尋常科手原小学校と改名
明治21年簡易科手原小学校も併設
明治26年葉山尋常小学校開設
明治9年葉山尋常小学校へ統合
この地は先人たちの学びの場であり、右に立つ石柱は往事を偲ぶ校門である。
  平成21年5月

学校門柱碑

学校門柱