東海道は、中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中を加えた五街道の中でも江戸と京を結ぶ江戸時代随一の幹線路であった。 その里程は、江戸日本橋から相模小田原を経由、箱根の関・大井川を越え、遠州灘沿いに西進し、伊勢桑名宿を経て、鈴鹿峠から近江に至り、 土山・水口・石部・草津の各宿を経由、勢田橋を渡り、大津宿を経て京三条大橋に至るもので、東海道五十三次と称された。
  草津では、小柿から大路井に入ると、すぐ砂川(旧草津川)を渡り、11町53間半(約1.3km)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し、勢田に至った。
  草津宿には、本陣・脇本陣などが設けられ、常善寺・立木大明神(立木神社)ほかの多数の社寺が立ち並び、70軒を越える旅籠をはじめ500軒以上の町屋があった。
 また、矢倉には光伝寺・姥ヶ餅屋・矢倉道標・野路には一里塚・教善寺・新宮大明神(新宮神社)・野路の玉川跡などの社寺名所が在り、矢倉野路間、 野路南笠間の街道沿いには松並木が続いていた。
   草津市教育委員会

草津町道路元標

東海道説明

  この歌は「覧富士記」に収められており、堯孝法師の作といわれている。 室町時代の歌人で頓阿の曽孫。常光院と号し応永21年(1414)には二条派の中心歌人であった。
  正長元年(1428)足利義教が幕府で歌会を開いて以来飛鳥井家の人々の中心メンバーであり、 永享4年(1432)の富士見にお供して 「覧富士記」 を残した。 堯孝法師が東常縁に伝えた古今伝授は、後、宗祇(近江出身)に継承された。

近江路や 秋の草つは なのみして 花咲くのべぞ 何處ともなき 

 将軍のお供をして富士を見に行く途上、秋の近江路を草津まで来たが、草津とは名ばかりで、 秋の草花が咲いた美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい思いをするものだよ。

ランナーがすれ違っているような造りになっている

時の旅人

堯孝法師歌碑

作者紹介 覧富士記 堯光法師