当寺は、天平7年(735)良弁の開基と伝えられる古刹である。その後、建治2年(1276)に叡尊上人は中興すると伝える。現在の本尊である木造阿弥陀如来及両脇侍の三尊は、台座蓮弁ほか各所の墨書によって、建長3年(1253)から康元元年(1256)に渡って造像されたと思われ、宋様の影響を受けた像と考えられている。重要文化財。また、同三尊像の背面の壁には25菩薩が戴金を用いて細密に描かれている。三尊と同時期の作で、一具となって阿弥陀の来迎を表している。
 草津宿太田家の絵巻によると、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は、八幡(近江八幡市)から近江路を上り9月19日に草津・常善寺に宿陣。そのときの寺の客殿は、鈎の陣で足利義尚が出陣した御殿や客室を遺命によって当寺に寄進されたものであったとされている。在陣はわずかであったが、敵将石田三成などを捕え、家康公は大いに悦んで住僧一秀を召し、田畑50石を与えた。また、家康は草津が東海道や中山道の要地であることから、僧一秀の傍らに控えていた太田家も、草津の地の発展に力を傾注することを申し付けたとある。

常善寺由緒

草津宿太田家の絵巻
(徳川家康の常善寺宿陣)

地蔵堂

 当寺は、天平7年(735)良弁僧都の創建と伝えられる草津町最古の名刹である。
 かつては堂塔伽藍も整っていたが、兵火や水害によって荒廃したものである。
 室町時代「草津御所」と呼ばれ、幾度か将軍の宿舎ともなり、江戸時代にも草津宿の最も重要な寺である。
 本尊阿弥陀如来坐像並びに観音・勢至両菩薩立像は共に木造寄木造で建長5年(1253)の墨書銘があり、その温雅な佛相、複雑に翻る衣文など、造像当時の作風をよく残し、光背は迦陵頻迦の透かし彫りで、台座は寄木造漆箔の九重蓮坐に豪華な装飾を施した見事なもので、南北朝時代の代表作とも言える文化財である。
  明治33年4月7日 指定 草津市教育員会

阿弥陀如来・両脇士像説明

本堂に掛かる常善寺の扁額

常善寺本堂