本陣
 追分宿の本陣は歴代土屋市左衛門を世襲した。追分が宿場の機能を持つのは慶長7年(1602)中山道の伝馬制度を徳川家が整備した以後である。本陣文書に 「定路次駄賃之覚(慶長7年6月10日)」 の記録があり、本陣が問屋を兼ね宿継、伝馬人足の継立ても生業とした。本陣の建坪は238坪あり中山道の宿場中、塩尻宿・上尾宿に次ぐ大きな宿泊施設を備えていた本陣である。
本陣門の移築
 明治11年9月、明治天皇の北陸御巡幸により追分宿本陣が行在所として明治天皇に使用されるが、明治26年に信越線が全線開通すると追分宿を利用した宿継ぎの荷駄・旅人は他の交通手段に代わり、宿場としての機能を失う。本陣は明治の末期頃、追分宿に近い御代田町塩野地区の内堀家表門として移築される。内堀家では追分宿本陣の門として大切に扱い、門に覆屋をかけて約100年間の間、内堀家の門として役目を果たして来た。
 内堀家においては、本陣門が軽井沢町の歴史的遺産である事をご理解され、平成17年に内堀家(当主の内堀志通彦氏)より軽井沢町へ寄贈された。
軽井沢町の歴史的建造物(本陣門)
 軽井沢3宿の内、本陣の遺構を残し面影をたどれるのは追分宿に限られる。追分宿本陣の門(裏門)は宿場に残る歴史遺産として、軽井沢の宿場(江戸)文化を学び伝えてゆく貴重な建築文化財であることを考え、追分宿の往時をしのび、過去・現在・未来を通して宿場を語るシンボルとなる様、軽井沢町・軽井沢教育委員会は、旧中山道に面したこの地に本陣門を移築する。
門の構造(追分宿郷土館に展示)
 材料は全て欅材 一間冠木付き門・切妻造(桟瓦葺)・妻蟇股・二軒繁垂木・背面控柱。

土屋本陣の裏門を移築したもの

追分本陣門(裏門)説明

堀辰雄文学記念館