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中山道   (安中~中軽井沢)

安中から岩村田は、安中宿、松井田宿、坂本宿、軽井沢宿とあり、約35kmの道程である。

平成26年7月2日(水)☀  安中~横川  15.6㎞
梅雨の晴れ間を逃さず一昨日に引き続き先に進むこととした。日中は、気温が上がると予報が出ていたので、冷たいタオルが使えるように凍らせたペットボトルを2本用意して午前5時に出発した。安中には午前7時40分に到着。安中ではたくさんの高校生が下車していた。

久芳橋 正龍寺 東光院 熊野神社
碓氷川に架かる久芳橋を渡ると安中宿に入る。碓氷川は、梅雨の時期にしては水量が少ないとのこと。碓氷川の河川敷では早朝野球が行われていた。 安中宿に入って直ぐ右手に正龍寺がある。
正龍寺は、上野国第25番札所で、千手観音を本尊とする寺である。
境内には、寒念仏供養塔、南無阿弥陀仏名号碑、馬頭観音が建っている。
正龍寺から程なく左手に100円ショップのある十字路に出る。ここを右に入って行くと東光院がある。東光院は、天台宗の寺院で境内には如意輪観音を祀った観音堂がある。境内には、安中草三郎についての説明板がある。安中草三郎は、江戸時代の盗賊であり、上州安中の生まれとも信州の生まれとも言われるが、実在しなかったとされることもある。墓地に草三郎の妻である 「歌」 のものと伝わる墓がある. 東光院に隣接して熊野神社がある。
熊野神社は、安中城の鬼門を守っており、境内には倒れかけた大ケヤキ、猿田彦大神、元治元年(1864)、天明7年(1787)の石灯籠がある。

西廣寺 家並み 大泉寺 旧碓氷郡役所
熊野神社から街道へ出る途中に西廣寺がある。階段の途中に南無阿弥陀仏名号碑があり、山門をくぐると目の前に群馬県指定天然記念物のツバキが生えている。推定300年の大木である。境内には、安中藩の文教政策の中心となった太山融斎の墓、新島襄に薫陶を受けた牧師の柏木義圓の墓がある。 街道には、土蔵造りの旧家が目立つ。 西廣寺の並びに浄土宗の無邊山唐梅院大泉寺がある。
大泉寺の門前には、文化10年(1813)の庚申塔が建っている。
境内には、右手に鐘楼、左側に延命地蔵尊、溶岩で造られたような石灯籠がある。
大泉寺から西に進んで行くと右手に旧碓氷郡役所がある。
ここでは新島襄、八重の展示品があったので、入ってみることにした。

三社神社 本陣跡 安中奉行役宅 旧安中藩武家長屋
旧碓氷郡役所の向い側には、三社神社がある。階段を上がると小さな社があり、両脇に石祠が建っている。
傍らには石川館驛使生祠碑があり、説明書きによると 「道中奉行石川忠房は度重なる安中宿民の嘆願により、常備人馬を中山道各宿の半分に減らしたため、文政3年(1820)に忠房を生き神として生祠を建ててまつり、安中藩主板倉勝明は天保5年(1834)生祠の碑を建ててその恩に報いた。」 と書かれている。
街道に戻ると伝馬町交差点の手前の安中郵便局の一角に安中宿本陣跡碑が建っている。街道筋には、土蔵作りの旧家やレンガ造りの倉庫が建っている。 伝馬町交差点の先、東和銀行手前を右に入ると旧安中藩郡奉行役宅旧猪狩家屋敷がある。この建物は、幕末から明治初年にかけて猪狩幾右衛門懐忠が安中藩の奉行として住んでいた。
旧街道に平行に走るこの筋は大名小路と呼ばれ安中藩士の住宅が並んでいた。近くには、武家屋敷のような民家がある。
安中奉行役宅の先には旧安中藩武家長屋が復元されている。
この長屋は、復元前は三軒長屋として残っていたが、明治初期の間取り図によって建築当初の四軒長屋に復元したものである。

安楽寺 蔵造の商家 有田屋 便覧舎址
街道に戻ると左手に天台宗の安楽寺がある。山門をくぐると右手に六地蔵損尊が建っている。
旧街道を挟んで安楽寺の向かい側に赤い山門の時宗の碓氷山長徳寺がある。
旧街道には、サカウエ薬局のような重厚な蔵造の商家も残っている。 街道右手に醤油専門店の有田屋がある。ここ有田屋は、新島襄夫妻が泊まった由緒ある醤油屋である。
裏手に回るとレンガ造りの高い煙突が立っている。
有田屋の前には、便覧舎址の碑が建っている。ここは明治5年(1872)有田屋3代目当主湯浅治郎が、日本で初めて設立した私立図書館址である。蔵書は、和、漢、洋に亘り3,000冊。誰でも自由に無料で閲覧できた。また、同志社大学設立者の新島襄先生より感化を受けた男16名、女14名の人々がキリスト教の洗礼を受け、安中教会設立の原動力となったのもこの場所である。
明治26年(1893)の火災で全焼したため、現在は碑が残るのみである。

安中大木戸址 愛宕神社 新島襄旧宅入口 新島襄旧宅
便覧舎址から350m程進むと、街道左手の安中上野尻郵便局の一角に史跡安中大木戸址碑が建っている。
ここは安中宿の西口(京口)である。
街道に面して大きな常夜燈が建ち、広場を横切って石段を上ると愛宕神社がある。境内は古墳があった場所であり、庚申塔、石祠、石碑などがある。
明治の神社合併の際に、熊野神社に合祀しようとしたが、愛宕は火の神、熊野の末社諏訪社は水の神であるから宜しくないということで合併しなかったそうである。
愛宕神社から程なく左側に新島襄旧宅入口の碑が建っており、脇には道祖神の石碑が二つある。 新島襄は、天保14年(1843年)、安中藩士の子として江戸・神田に生まれた。21歳で渡米しキリスト教徒となり、帰国後父母の住む安中へ帰郷し、明治7年(1874)11月29日に、この家で元治元年(1864)以来十年ぶりに父母姉妹と再会した。
旧宅裏手には、安中藩主板倉勝明が漆栽培の利益配分を定めた漆園の記碑、新島襄先生之碑、湯浅半月の十二の石塚詩碑、有坂新助の漢詩浅間山の碑が建っている。

道祖神 杉並木 原市村戸長役場跡 明治天皇御小休所址
街道に戻って進み、国道18号線を横断して行くと、左手のホテルルートイン安中の前に道祖神が3基安置されている。表面の文字はかろうじて読める程度に風化している。 街道右手に食事処並木苑があり、白壁の土塀の前に杉並木の説明板がある。
江戸時代初期から植え継がれてきたもので、天保15年(1844)には732本あったが、現存するものは14本であり、昭和60年以降に54本植えられたと記載されている。並木苑の向かい側のコナカ駐車場の前に赤い鳥居の正一位稲荷大明神がある。植栽の中には、天然記念物安中原市杉並木の標柱が建っている。
碓氷郡原市村であった頃の役場跡である。現在は、合併し安中市原市となっている。
役場跡の手前には、土蔵や土塀のある旧家がいくつかある。
原市村戸長役場跡を過ぎると、街道左側に明治天皇御小休跡碑がある。
五十貝家が茶屋本陣をつとめ、明治11年9月5日明治天皇が北陸東海巡幸の際休息したという。同じ敷地の左側には、原市高札場跡の標柱が建っている。この直ぐ先には、石灯籠の立つ石祠がある。

眞光寺の鐘 忠魂碑 八本木旧立場茶屋跡 地蔵堂
石祠の先から緩やかな上り坂となり、右手空き地の見えるところにお堂があり、その脇に鐘楼がある。
境内の右手には、旧鐘楼の跡の標柱、南無阿弥陀仏名号碑、石祠、左手の墓石の中には仁井楽圃の碑がある。
安中市第二中学校の先、左手に大きな木のある公園があり、忠魂碑、日清役戦没者招魂之碑などが建っている。 公園の先に八本木旧立場茶屋の表札が掲げられた旧家があ。
ここは、往時、「志がらき茶屋」 の名で知られた八本木旧立場茶屋があった場所である。
向かい側の地蔵堂からは、建物の全景が見える。
八本木旧立場茶屋跡の向かい側の段上に、安中市指定重要文化財となっている延命地蔵菩薩の安置された地蔵堂がある。
境内には、聖徳太子孝養の像、安中最古の庚申石祠、表情の異なる六地蔵尊、延宝2年(1674)・安永2年(1773)・文化10年(1813)などの石碑・墓石がたくさんある。

道祖神 家並み 馬頭観音 日枝神社
街道を暫く進むと右手角に明和元年(1764)の道祖神と石祠がある。
地蔵堂からここまで、ほぼ500m刻みで木製道標(←松井田宿・安中宿→)が建っている。
道祖神の先には、立派な塀と植栽のある家がある。
この先の街道沿いには、アジサイの花が咲き、その先には黒の板塀の家がある。
街道右手の民家の角に文化9年(1812)の馬頭観世音が安置されている。 馬頭観音から程なく街道が右にカーブする右手に石の鳥居が建つ日枝神社がある。
二の鳥居をくぐったところに神楽殿があり、神楽殿をくぐって拝殿に向かう珍しい神社である。神楽殿の前には、カエルの石像、七福神、石灯籠がある。境内裏手には、大小さまざまな庚申塔が5基建っている。

自性寺 道祖神と道標 妙義山 妙義道常夜燈
日枝神社に隣接して真言宗豊山派の慶光山自在院自性寺がある。境内には、2基の宝篋印塔があり、応永3年(1396)のものは総高95cm、嘉吉3年(1443)のものは総高93cmである。いずれも相輪、笠、塔身、基礎からなる関東形式の宝篋印塔であり、市指定重要文化財となっている。
墓地の入り口には、六地蔵尊、供養塔などが並んでおり、中央の御堂に釈迦如来像と神輿がある。
自性寺の直ぐ先、右手に安永3年(1774)の道祖神、百番供養塔、木柱の道標が立っており、松井田宿まで2.9㎞とある。 道祖神の先は、街道正面に妙義の山並みが大きくなってくる。街道両脇には、旅籠風の趣のある家並みが続いている。 国道18号線に突き当たったところに文化5年(1808)の妙義道常夜燈が建っている。塔身の正面には 「白雲山」、東面に 「文化五年戌辰四月七日」、西面に 「当所講中」 と刻まれ、台座には 「是より妙義道」 とあり、妙義神社への参詣者への道しるべであったことが判る。周囲には、道祖神や、山中貞輔の歌碑があり、竹藪の脇には、新島襄祖先の墓入口の木柱がある。

旧道 道標 崇徳寺 松井田町道路元標
先に進むと国道18号線から分岐して左に入る旧道がある。旧道に入ると少し下った右手に石祠を中心に墓石など石塔群があり、そこを過ぎると正面に妙義の山が見えてくる。この後、旧道は若干上って国道18号線に合流する。 下町交差点に松井田宿の木柱の道標があり、ここから松井田宿に入ることになる。
この先には、徳右衛門脇本陣をはじめ、いくつか旅籠風の民家が建っている。
下町交差点の先、左側に足利尊氏の開基と伝わる臨済宗妙心寺派の貞松山崇徳寺がある。山門の左手に供養塔があり、その奥に観音堂がある。
本堂前には老木があり、境内には隣接する保育園の遊具が置かれている。
仲町交差点の右手には趣のある民家が建っており、この角に松井田町道路元標が建っている。この付近に金井本陣と松本本陣があったが、標柱等もなく所在は不明である。
この先の辻中薬局は土蔵のような造りになっている。

まちなかにぎわい広場 上木戸 松井田八幡宮 金井家
仲町交差点の先、左側に冠木門をかたどったモニュメントのあるまちなかにぎわい広場がある。入口には、松井田宿の案内図がある。 街道を暫く進むと歩道橋があり、歩道橋の下右手に松井田宿の木柱の道標が立っている。この辺りが、松井田宿の京口である上木戸であったという。 歩道橋の先右手に路地があり、入って行くと正面に松井田八幡宮の鳥居がある。創建年代などは明らかでないが、寛永年間(1624-644)に再建されたとされる本殿が県の指定文化財になっている。
鳥居の横には、庚申塔があり、鳥居をくぐると狛犬が鎮座し、さらに階段を上がると石灯籠、その先の階段を上がると拝殿となる。境内には、六角堂や境内社がある。
新堀交差点を越えた左側に金井家があり、門の前には、江戸時代の寛政から文化年間中に幕府の道中奉行によって作成された 「中山道分間延絵図」 の銅板画が建っている。

補陀寺 道祖神・一里塚 第十中山道踏切 庚申塔
西松井田駅前交差点の先、右手に曹洞宗の大泉山補陀寺がある。
松井田城主大道寺政繁の墓がある。小田原攻めの際、豊臣軍前田利家等の攻撃を受けて降伏し、戦後に切腹処分となった。
境内の鐘楼は、改修中であったが、広い寺域は松田城の一部を占めており、街道に面した石垣の上に松井田城址の説明板がある。
安中警察署松井田分庁舎の手前でY字路となるので、ここを左に折れて旧道へ入って行く。旧道に入って直ぐ右手の土手上に道祖神が建っている。
道祖神の前の植栽の中に一里塚の説明板がある。ここは江戸より32里目の一里塚である。
道祖神を過ぎると信越本線の製糸踏前に出るが、その先の旧道は消滅しているので、迂回するため200mほど信越本線と並行し、中山道第十踏切を越えることになる。
アジサイの咲く旧道を進むと山並みが近くに迫ってくる。
先に進むと国道18号線に突き当たる所に中山道道標があり、国道18号線を渡って、上信越自動車道の下をくぐって旧道に復帰すると、右手理髪店の前に庚申塔と二十三夜塔がある。

高札場跡 五料の茶屋本陣 双体道祖神 榎踏切
理髪店の先に高札場跡の立札がある。
立札には、「安中藩 板倉伊豫守領分 五料村 高札場跡」 と記されている。五料村は碓氷関所付要害村で、外部からの潜入を監視する役目を担っていた。
高札場の脇を通って信越本線の踏切を越えたところに五料の茶本陣がある。
西側が本家で「お西」、東側が分家で「お東」と呼ばれている。
茶屋本陣のはずれには、石祠や石灯籠がある。
街道に出ると直ぐ先左側に男女双体道祖神が建っている。奥に見える山は妙義山である。近くに木柱の中山道道標があり、「←坂本宿5.5㎞・松井田宿2.8㎞→」 と記されている。 中山道道標から200m程先で、旧道は信越本線を榎踏切で越えて緩やかな坂を上って行く。

石碑群 茶釜石 石仏 碓氷神社
榎踏切を越えて坂を上って行くと左手に道祖神が有り、その直ぐ先右手に石碑群がある。大きなものは元文5年(1740)の青面金剛塔、小さなものは馬頭観音である。 石碑群の直ぐ上に地蔵菩薩と小石で叩くと金属音が響く茶釜石がある。
たまたまここを通った蜀山人(大田南畝)が、 「五料(五両)ではあんまり高い(位置が高い)茶釜石 値打(値うち)をきいて通る旅人」 と狂歌を作ったという。地蔵菩薩は夜泣き地蔵といわれ、昔、馬方が荷のバランスをとる為に地蔵の頭を利用し、用が済むと路傍に捨ててしまったため、夜毎 「五料恋しや」 と地蔵の頭が泣くため、里人が憐れみここに届けたといわれている。
茶釜石を過ぎると梅林が続き、傍らに文政10年(1827)の石仏ある。
この先、旧道は蛇行し、傍らには道祖神、馬頭観音、木柱の中山道道標が立っている。
旧道の坂道を下りると信越本線に突き当たる。200mほど信越本線と並行して進むと右手に碓氷神社がある。
創建年は不詳であるが、碓氷峠熊野神社を分祀し、碓氷郷の鎮守産土神として崇敬されている。源頼朝が信州浅間の牧狩りの際、碓氷神社の境内に御所を置いたところから、この地を御所平と呼ぶようになったと云う。境内周辺には、石祠、庚申塔、二十三夜塔などがある。

石塔群 百合若大臣の足跡石 碓氷川 妙義山
碓氷神社の前でJR信越本線を渡り、安中市立臼井小学校前の旧道に出る。
旧道が国道18号線と突き当たる右手前に石塔群がある。
石塔群は、寛政元年(1789)の庚申塔、男女双体道祖神、南無阿弥陀仏名号碑、馬頭観音である。国道18号線の土手には、石祠が4基鎮座している。
小山沢川を山沢橋で渡り、その先で左に分岐する旧道を進むと、150m程先で再び国道18号線に合流する。この合流地点手前に百合若大臣の足跡石がある。
昔、ここで百合若大臣という大男が、この地から弓を射る際に踏ん張った時にできた足跡と言われる石がある。
国道18号線の歩道からは、碓氷川が良く見える。
碓氷川は、烏川の支流として群馬県と長野県との境に端を発し、国道18号と並行しながら松井田町、安中市を経て烏川に合流している。
街道左手には妙義山の山容が目の前に迫る。

第十五中山道踏切 正一位法光稲荷大明神 荻野屋 機関車の動輪
下横川交差点で第十五中山道踏切を渡って信越本線の右側を並行して旧道を進む。 途中にあった木柱の道標では、坂本宿まで2.5㎞となり、前方に峠の釜めしの黄色い看板が見えるところの右手電柱に 「正一位稲荷大明神」 と書かれた標柱がある。
この路地を上って行くと赤い鳥居が見えてくる。階段を上がった境内には、南無妙法連華経題目碑があり、祠は山を背にしているが、二体の狐は左を向いている。脇には年代の分からない石灯籠が建っている。
明治18年創業の峠の釜めし発祥の地荻野屋が横川駅前に建っている。
最初は、明治18年10月に日本最古の 「駅弁おむすび」 を販売したのが始まり。「駅弁おむすび」 は、おむすび三個に沢庵一切れで竹の皮に包んで5銭だった。
横川駅舎の前に保存されている機関車の動輪である。
全国JR路線の中で最大の難所と言われた信越本線の横川~軽井沢間のシェルパとして平成9年9月30日まで活躍した「EF63-3号」機関車の動輪である。
今回はここで終了し横川駅から帰ることになった。

平成26年7月20日(日) ☁|☂  横川~中軽井沢   19.4㎞
天気予報では日中は時々陽も射すが、所により一時雨とのことであり、峠道であり雨も仕方ないと覚悟してしっかり雨対策をして出掛けることとした。今回は甲州街道の笹子峠を一緒に歩いてくれた友人と二人で越えることになった。

御嶽山座王大権現碑 横川茶屋本陣跡 諏訪神社 酒屋
横川駅から街道に出てすぐ矢野沢橋の手前段上に大きな碑が建っている。
御嶽山座王大権現碑であり、手前の草むらには、二十三夜塔、庚申塔が数基建っている。矢野沢のフェンスに子育地蔵尊の看板があり、上流300mと書いてあったので、橋から10mほど上流の水天宮だけ見ることにした。
矢野沢橋のすぐ先、右手に横川茶屋本陣跡がある。 この茶屋本陣は、代々横川村名主を勤め幕末の頃は坂本駅の助郷惣代をも兼ねた武井家の西の一部である。
棟は居宅と同一であるが、居宅分は二階があり、本陣の方は二階を造らず天井を高くしてある。
茶屋本陣から10mほど先に諏訪神社の社標が建っており参道奥に鳥居が見える。
鳥居をくぐると急な階段があり、脇には4本の石灯籠が建っている。
境内には、石祠、道祖神がたくさんある。
諏訪神社の参道を下りてくると突当りに趣のある酒屋さんがあり、群馬の地酒 「裏妙義」、「碓氷関所」 が店頭に並んでいた。

碓氷関所跡 鎮魂碑と招魂碑 薬師坂入口 薬師堂
緩やかな坂道を進んでいくと右手の石垣の上に碓氷関所の門が建っている。
門柱、門扉は当時使われていたもので、昭和34年に復元されたものである。門の前には、通行人が手をついて通行手形を差し出し通行の許可を受けた 「おじぎ石」 がある。
傍らには、復元記念碑と御堂などが建っている。
碓氷関所跡から旧道を下る途中の左手空き地の一角に鎮魂碑が建っている。
碓氷峠は幾多の交通機関の変遷をたどり、信越本線の廃線など各種交通機関の建設に当たって殉職された者や災害、交通事故のため亡くなった者の慰霊のために鎮魂碑を建立したものである。隣には、碓氷アプト式鉄道の建設のため亡くなられた鹿島組の招魂碑が建っている。
旧碓氷アプト式鉄道のガード下をくぐり、その先の霧積川を霧積橋で渡ったところの右手に旧道口があり、入口に川久保薬師坂と刻まれた石碑が建っている。かつては霧積橋より上流に川久保橋が架けられ、正式には碓氷御関所橋と呼ばれた土橋であった。 薬師坂入口から左手に薬師堂の灯篭が見えているが、この薬師堂は元和9年(1623)碓氷関所が開設されて取り締まりが厳しくなり、加えて碓氷峠が間近に控えており旅人が難渋を極めたため、旅人の通行の無事を祈って薬師堂が建立されたものである。また薬師堂の少し先には、薬師の湧水が流れていて当時は心太を商う店があり、旅人の憩いの場所であった。このため心太坂といわれて親しまれた。

白鬚神社 水神宮 下木戸跡 米屋
薬師坂を上りきって、その先の川久保坂を進むと左側に50m入ったところに白鬚神社がある。日本武尊が東国を平定した帰途、山の神が白鹿に化けて日本武尊の進路を濃霧で妨げた時、剣を持った白髪の老人が現れ白鹿を退治し、濃霧から救ったという。このため、この地に猿田彦命を祀って石祠を建たといわれている。境内には、たくさんの庚申塔、供養塔、道祖神、石祠がある。 街道に戻って350m程進むと、上信越自動車道の手前に赤い鳥居の水神宮がある。もとは現在地よりやや東の当時の原村 (現在の松井田町大字原) の外れにあったという。かつて道路の脇に流れていた水を原村の住民が生活用水として利用していたもので、清浄と安全と豊富を祈って水神を祀ったものと言われている。 原交差点の角にある原駐在所を過ぎると下木戸跡が見えてくる。
碓氷峠越えのために設けられた坂本宿の京都寄りに上木戸、江戸寄りに下木戸が設けられたもので、一部が復元されている。正面の上部が雲に隠れている山が、これから行く刎石山(
はねいしやま)である。下木戸跡の直ぐ先には、坂本町記念碑と戦没者顕彰碑が建っており、その向かいに俳人武井九夏の生家跡がある。
街道には、色々な屋号が掲げられた家が立ち並んでいる。
写真は米屋、近くには中澤屋、俳人中村碓嶺が生まれた中村屋がある。

佐藤本陣跡 脇本陣跡 旅籠かぎや 旅籠つたや
坂本宿にあった二つの本陣のうちの一つで 「上の本陣」 と呼ばれていた。
説明板の脇には、「坂本小学校発祥の地」の石柱が建っており、明治8年4月10日、佐藤本陣を仮校舎にあて、坂本小学校を開校したとのことである。
佐藤本陣跡の隣に、脇本陣みよがやがあり、本陣門を残している。この他、立派な門の脇本陣永井、坂本公民館になっている脇本陣酒屋がある。 「かぎや」 は坂本宿の面影を残す代表的な旅籠建物であり、およそ370年、高崎藩納戸役鍵番をしていた武井家の先祖が坂本宿に移住し、旅籠を営むにあたり役職にちなんで屋号を 「かぎや」 としたと言われている。 明治41年8月6日、若山牧水が軽井沢で遊んで碓氷峠を越えて坂本宿に宿をとろうとして、ただ一軒残っている宿屋 「つたや」 に無理に頼んで泊めてもらったという。寝についても暑さで寝付かれず、焼酎を求めに出て、月下の石ころ道を歩きながら、ふと耳にした糸繰り唄に一層の寂寥感を覚え詠んだ一句に次のものがある。「秋風や 碓氷のふもと 荒れ寂し 坂本の宿の 糸繰りの唄」 

洞松寺 旅籠たかさごや 道標 上木戸跡
緩かな坂道を進むと街道左側に真言宗豊山派の洞松寺がある。
開山は鎌倉時代の承久2年(1220)に字愛宕に創建されたと伝えられるが、東山道の道筋から考えると堂峰にあったようである。境内には、道祖神、庚申供養塔、念仏供養塔など色々な供養塔や石碑がある。
小林一茶は、江戸と郷里を往来するときに中山道を利用すると 「たかさごや」 を利用したという。この家のガレージ奥の軒先に 「たかさごや」 と屋号が下がっている。
碓氷峠の 「覗き」 から坂本宿を一望して次の句を詠んでいる。
「坂本や 袂の下は 夕ひばり」
ヤマザキショップの対面に標柱が建っており、正面に 「上州中山道筋坂本宿丸仁屋跡」、側面には、「東 江戸へ三十四里」、「西 京へ百二里」 と刻まれている。 道標の先、右手に上木戸跡があり一部復元されている。
木戸跡の下には常夜燈と刻まれた石柱が建っており、その後ろに隠れるように橋供養塔が建っている。

芭蕉句碑 八幡宮 青松寺 碓氷峠へのアプローチ
上木戸跡の4~5m先に町指定重要文化財の芭蕉句碑がある。
もとは刎石山にあったものを明治年間、廃道に伴って現在地に移転したものである。書体は 「ちくら様」 で、句は元禄年間の 「曠野(こうや)」 にあり、内容は木曽路下りのもので碓氷峠のものではない。句碑には、「ひとつ脱てうしろに負ひぬ衣かへ」 と刻まれている。
程なく八幡宮の赤い鳥居が街道右手に見える。伝承によると景行天皇40年(古墳時代の前)日本武尊の勧請という。
鳥居脇には、男女双体道祖神が2基、階段脇には御嶽山座王大権現、2体の変わった狛犬が鎮座している。
境内には、拝殿、神輿蔵、たくさんの石祠などがある。
八幡宮の向かいに青松寺がある。
境内には、庚申塔、馬にまたがった勝軍地蔵の碑が建っている。
国道18号線を離れて左の旧街道へ入って行く。右側には、円柱の貯水タンクが見える。旧道を進んでいくと草道となり、更に進んで右手の丸太で作った階段を上って行くと国道18号線に突き当たる。

碓氷峠入口 堂峰番所跡 念仏百万遍供養塔 ゴルフ場
峠の入り口には、碓氷小屋があり、ここで登る準備をして行く。
小屋の脇には、日本の道百選中山道と書かれた標柱や峠の全体絵図がある。旧道に入って直ぐ安政遠足の道標がある。
堂峰の見晴らしの良い場所(坂本宿に向かって左側)の石垣上に番所を構え、中山道を挟んで定附同心の住宅が2軒あった。
現在でも門の土台石やその地形が石垣と共に残されている。
堂峰番所から5~6分ほど登ると左側に文政5年(1822)の念仏百万遍供養塔がある。
この辺りの旧道は、連日の雨で水こそ流れていないが、川原状態である。
霧でかすんで良くは見えないが、旧道の右下にヴィレッジ東軽井沢ゴルフクラブのコースが見える。

柱状節理 刎石坂 上り地蔵下り地蔵 覗き
先に進むと旧道に面して岩が柱のようになった場所がある。
柱状節理で火成岩の冷却、固結するとき亀裂を生じ、自然に四角または六角の柱状に割れたものである。
柱状節理の直ぐ上の坂に刎石坂の説明板があり、一帯に南無阿弥陀仏名号碑、大日尊、馬頭観音が建っている。
かつては芭蕉句碑もあったが、現在は上木戸門に移設されている。道は荒れており、危険な個所にはロープが張られている。
刎石坂を登り詰めたところに上り地蔵下り地蔵の板碑があるが、暗くて彫られた状態は確認できなかった。十返舎一九が 「たび人の身をこにはたくなんじょみち、石のうすいのとうげなりとて」 と・・・その険阻な道は刎石坂である。刎石坂を登りつめたところに、この板碑のような地蔵があって、旅人の安全を見つめているとともに、幼児の健やかな成長を見守っている。 鬱蒼とした坂道を上りきると左手に坂本宿が見える。この日は小雨と霧で、はっきりとは見えなかった。
小林一茶は、ここで 「坂本や 袂の下の 夕ひばり」 と詠んでいる

馬頭観音 風穴 弘法の井戸 四軒茶屋跡
覗きの直ぐ先に天保7年(1836)の大きな馬頭観音が建っている。 馬頭観音の先に風穴があり、かすかに風を感じることができる。
ここには刎石溶岩の裂け目から、水蒸気で湿った風が吹き出している穴が数か所ある。
次第に霧が濃くなってきた。
諸国を回っていた弘法大師が刎石茶屋に水がないので、ここに井戸を掘ればよいと教えたという。覗き込むと水が見える。近くには大きな柄杓が置かれている。
櫓の支柱には、クマ出没注意と警告がある。
刎石山の頂上で昔ここに四軒の茶屋があった屋敷跡である。
現在も石垣や墓が残っている。
この先は、杉の木林の中の尾根道を行く。

碓氷坂の関所跡 堀切 南向馬頭観音 北向馬頭観音
尾根道を行くと左手の高台に東屋が建っており、昌泰2年(899)碓氷の坂に関所を設けた場所と言われている。
東屋の中には、ビニールで保護されたノートが3冊ほど置いてあり、ここを訪れた旅人が記念に署名している。東屋を出ると一瞬陽が射し明るくなった。出来れば天気のいい時にもう一度歩いてみたい。
尾根道を先に進むと、旧道の両脇が崖状態になって細くなっている箇所がある。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻めで、北陸・信州軍を松井田城主大導寺駿河守が防戦しようとした場所で、道は狭く両側が掘り切られている。掘り切を過ぎると南側は絶壁が続き、危険な個所にはロープが張られている。 南側が絶壁となる道を進むと、右手の岩の上に寛政3年(1791)建立の馬頭観音が建っている。昔、この付近は山賊が出たところと言われている。 直ぐ先の岩の上に文化15年(1818)建立の馬頭観世音が建っている。
馬頭観音のあるところは危険な場所であり、旅人の安全を見守ってくれている。

一里塚 座頭ころがし 栗が原 安政遠足
北向馬頭観音の直ぐ先に一里塚の説明板があり、座頭ころがしの坂を下ったところに、慶長以前の旧道(東山道)がある。ここから昔は登っていった。その途中に小山を切り開き 「一里塚」 がつくられているとある。江戸日本橋から数えて35里目の一里塚跡である。 一里塚の先は道が河原のようになっていて石ころがゴロゴロしている。
この急な坂を座頭ころがしと呼んでいる。甲州街道の矢坪坂の古戦場の先にも座頭転がしがあり、盲人の一行が難所に差しかかった折り、先行していた者の声を頼りに直進した盲人が谷底に転落してしまったという場所である。
座頭ころがしを登りきると 「水源かん養保安林 至軽井沢へ」 と書かれた道標があり、左から明治天皇御巡幸道が合流する。
ここの分岐ポイントの開けた所に説明板があり、ここは 「栗が原」 と呼ばれ、明治8年群馬県最初の 「見回り方屯所」 が設けられた場所であり、これが交番のはじまりとなったと記されている。
碓氷峠の入り口から続いている 「安政遠足」 の標識は道中たくさん出てくるが、この辺りの道はまだ雨水が少し流れていて歩きづらかった

馬頭観音 山中茶屋 山中坂 倒木
段上に線刻の馬頭観音があるが、ここは山中茶屋の入り口にあたり、「入道くぼ」 と呼ばれた。この先の山中茶屋にかけての赤土のだらだら下りの坂は 「まごめ坂」 と呼ばれている。 馬頭観音を過ぎて開けた場所に中山茶屋の説明板が立っている。
山中茶屋は峠の真ん中にある茶屋で、慶安年中(1648年~)に峠町の人が川水をくみ上げるところに茶屋を開いた。寛文2年(1662年)には、13軒の立場茶屋ができ、寺もあって茶屋本陣には上段の間が2か所あった。
明治の頃小学校もできたが、現在は屋敷跡、墓の石塔、畑跡が残っていると記されている。
山中茶屋を出ると子持山の山麓を陣馬が原に向かう急な上りの 「山中坂」 になる。この坂は別名 「飯喰い坂」 とも呼ばれ、坂本宿から上って来た旅人は空腹ではとても駄目なので、手前の山中茶屋で飯を喰って勢いをつけて登ったと云われている。
少し手前に上部の折れた二十三夜塔があり、道はこれまでの雨で中央がえぐられている。
山中坂の途中左側に朽ちたバスがあり、街道は何箇所か倒木で道が塞がれていて倒木を越えるのに一苦労であった。

一つ家跡 陣馬が原 化粧水跡 人馬施行所・笹沢
倒木を越えて登って行くと左手に説明板が立っており、「当時ここには老婆がいて旅人を苦しめたと言われた」 と記されている。 一つ家を過ぎると道は分岐になり、右手に陣馬が原の説明板がある。
太平記に新田方と足利方の碓氷峠の合戦が記され、戦国時代、武田方と上杉方の碓氷峠合戦記がある。笹沢から子持山の間は萱野原でここが古戦場といわれている。
街道は右手に和宮が降嫁される時に開かれた新道があるが、旧道は左に入って行く。
陣馬が原から旧道に下って行くと、右手に説明板があり、峠を通る旅人が、ここを流れる沢水で姿・形を直した水場であったと記されている。この先の道は、最近の倒木が道を塞いでいるところや、ちょろちょろと水が流れているところもあった。 化粧水跡の直ぐ先には、人馬施行所跡があり、説明板には 「笹沢のほとりに、文政11年江戸呉服屋の与兵衛が安中藩から間口十七間,、奥行き二十間を借りて人馬が休む家をつくった」 と記されている。
笹沢には橋が架っておらず、水量が多いと難儀しそうである。

熊笹の道 長坂道 思婦石 一つ家の碑・碓氷貞光神社
笹沢を渡ると旧道は、細い登りの熊笹の道が続く。 熊笹の道を過ぎると、旧道は登り坂が続き大汗をかいてしまう。
途中に説明板があり、「中山道をしのぶ古いみちである」 と記されている。
やがて旧道は、和宮道に突当り、このT字路に思婦石が建っている。
思婦石は、群馬県室田の国学者関橋守の作で安政4年(1857)建立され、「日本武尊」 の故事をうたったものとだという。「ありし代に かへりみしてふ 碓氷山 今も恋しき 吾妻路のそら」 思婦石の傍らには、石祠、忠魂碑、仁王門跡の説明板などがある。
思婦石の脇に一つ家の歌碑の道標があり、下って行くと大きな倒木が道を塞ぎ、その先に倒れかかった社と脇に弁慶が書いたと言われる一つ家の碑が建っている。
倒木を越える際に不覚にも足を滑らせ弁慶の泣き所を強打してしまい、内出血を起こして足が腫れてしまった。帰宅後も腫れたままで完治に2~3か月かかると診断されてしまった。

明治天皇御膳水 頂上 熊野神社 参道
思婦石の先は道が広くなり、左手に碓氷川水源地の標識があり、そこから20mほど降りて行くと清流が湧き出ており、脇に明治天皇御膳水の石柱が建っている。
水源の周囲には、水神碑、相馬御風歌碑が建っている。歌碑には、「なりなりて おのれきよかる 高山の こほりにうつる 空の色かも」 と刻まれている。
写真の左の林から出てくると頂上である。頂上には見晴亭をはじめとした茶屋が数軒並んでいる。駐車場脇には、赤門屋敷跡がある。かつてこの地に加賀藩前田家の御守殿門を倣って造られた朱塗りの門があった。和宮御降下の折もこの赤門屋敷に休憩された。
屋敷跡の傍らには、赤門稲荷社の赤い社、みくにふみの碑がある。
長野県と群馬県の県境に熊野神社がある。熊野神社は、日本武尊が東国平定の帰路の時、碓氷峠で濃霧にまかれた。その時、八咫烏(やたがらす)の道案内によって無事嶺に達する事ができたことより、熊野の大神を祀ったと伝えられる。
常夜燈の前には、安政遠足の終点の標識が立っている。また鳥居の手前の参道には、長野県と群馬県の標識が並んで埋め込まれている。
鳥居をくぐると左右にちょっと変わった狛犬が鎮座している。室町時代中期の作で長野県最古のものである。
階段を上がった左右には、佐藤市右衛門が佐藤家の紋章源氏車を刻んで奉納した石の風車がある。

熊野神社拝殿 見晴らし台 旧道入口 遊歩道
熊野神社は長野県と群馬県の県境に位置するため、左信州分に那智宮、右上州分に神宮、中央に本宮を祀っており、賽銭箱は二つ並んでいる。境内には、山神社、荒神社、八咫烏社、矢立社など複数の境内社のほか、明治天皇峠御小休所の石碑、杉浦翠子の歌碑などがある。 見晴らし台も長野県と群馬県の県境となっており、石のモニュメントがある。見晴らし台は、戦国時代の狼煙台とも言われている。
近辺には、アジアで初めてノーベル文学賞を受けたインドの詩人タゴールの肖像、万葉集歌碑などがある。
駐車場の脇に 「旧中山道碓氷峠道跡」 の道標があり、旧道入口があるが、この先は整備されておらず、途中で分からなくなる危険もあるので、遊歩道を下ることとした。 遊歩道に入って直ぐ、国道をまたぐ歩道橋があり、渡ると一機に下りの道となる。
途中、クマ注意の看板があり、数か所の沢に架かる木の橋を渡って下って行くと、やがて大きな吊り橋が現れ、ここを渡ると別荘地となり遊歩道は終了する。

二手橋 つるや 神宮寺 脇本陣江戸屋跡
舗装路を下ってくると矢ヶ崎川に架かる二手橋に出る。二手橋は、軽井沢に泊まった旅人が、江戸へ行く場合、飯盛女に送られてここまで来て 名残りを惜しみながら東西二手に別れたことがその名の由来である。二手橋を渡ると軽井沢宿である。
橋の手前には、室生犀星の文学碑が建っており、橋を渡ると避暑地軽井沢の基礎を築いたカナダ生まれのショー氏の記念碑がある。
つるや旅館は、往時茶屋で、強飯(こわめし)、ざるそば、煮しめが名物であったという。
つるや旅館の手前には、天保14年(1843)に建てられた芭蕉句碑があり、「馬をさへ ながむる雪の あした哉」 と刻まれている。
つるや旅館の先、右手に神宮寺の標柱があり、細い参道の先に真言宗智山派の神宮寺がある。元は碓氷峠の熊野神社付近にあったが、寛文2年(1662)に現在地に移転した。境内には、本堂の右手に天和3年(1683)の不動明王、文化13年(1816)の二百萬遍塔、寛政9年(1797)の念仏供養塔などの石塔群と推定樹齢400年の枝垂れ桜がある。 神宮寺の先、左側に軽井沢町観光協会が建っているが、往時はここに脇本陣江戸屋があった。

庚申塔 沓掛宿 長倉神社 沓掛時次郎の碑
軽井沢商店街を抜けてどんどん進み、右手の精進場川に沿った道を進むと、右手から回り込んできた精進場川に架かる野沢橋がある。更に木々に囲まれた道を進み軽井沢ホテルロンギングハウスを過ぎると右手道端に庚申塔などの石碑群がある。
この先には木の枝に隠れた馬頭観音が建っている。
先に進んで離山信号交差点で国道18号線に合流し、更に500m程先の軽井沢中学校前交差点で左折して旧道に入る。旧道に入って700m程進み、湯川に架かる前沢橋を渡って国道18号線に出たところに沓掛宿の石柱が建っている。沓掛宿に到着である。 沓掛宿碑の後方に鳥居が見え、鳥居をくぐると湯川に架かる赤い鉄製の神橋があり、参道が続いている。
境内には、八坂神社、西宮神社などの境内社があり、頭部が破損した石仏や土俵がある。
長倉神社境内の一角には、長谷川伸の筆によって生まれた架空の人物沓掛時次郎の碑がある。
碑には、「千両万両枉げない意地も 人情からめば弱くなる 浅間三筋の煙の下で 男 沓掛時次郎」 と刻まれている。
ここから本日の宿まで1Kmほど坂道を上る。途中、コンビニで打撲箇所を冷やすためのスプレーなどを買い込んでいく。

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