望月宿を抜けると中山道は茂田井に至っている。茂田井は、東の望月宿と西の芦田宿の間にある日村で、現在は間の宿とも呼ばれている。ここは茂田井への入口で、坂を下りはじめると、江戸時代の面影の残る民家や造り酒屋が軒を連ねている。
寛保2年(1742)の大洪水で望月新町が道ごと流されたり、本町も大きな被害を受けたため、茂田井村を望月宿の加宿にしようと江戸幕府に願い出たが却下された経緯がある。
元治元年(1864)11月19日、天狗党水戸浪士の中山道通過に際しては、茂田井村が小諸藩兵士400人程の宿となっている。
また、文久元年(1861)11月7日には、徳川14代将軍家茂に、公武合体の犠牲となって降嫁される孝明天皇の妹和宮の大行列が茂田井を通過するなど大きな出来事があった。
一里塚は、瓜生坂頂上付近に続き、立科町茂田井の石原坂を上り切った左右に位置しているが、現在は痕跡がみられるだけである。
(佐久市教育委員会)
中山道茂田井入口説明
にごり池の西側道路との交差点角に建つ木製道標
茂田井間の宿散策マップ
←茂田井間の宿 ・ 望月宿→