(丸山新左衛門家・本棟造り、切妻造りで入口が裏側にある。
塩名田宿は、江戸から43里13丁、23番目。中山道筋が定まるのは慶長のはじめころ、塩名田宿は岩村田と望月の中間に位置し、街道筋でも難場の一つ千曲川を前に一宿が必要として、北方の岩下通りや南方段丘上の町田や舟久保の住民を現在地に40軒ほど移して形成した。問屋新左衛門・文左衛門、名主彦兵衛、本陣新左衛門。善兵衛、脇本陣文左衛門で丸山氏の同族が主に勤めた。寛政12年(1800)の宿内総家数は126軒。
問屋・本陣新左衛門家は宿のほぼ中央にあり、宝暦6年(1756)に再建されたが、現在は御殿部分が改装した住宅になった。円山家には宿場関係史料が多数保存されている。
問屋・本陣跡説明
問屋本陣の屋号が掛かる
塩名田宿本陣・問屋跡標柱