大田山龍雲寺由緒

鐘楼

百番順礼供養塔

 当寺院は鎌倉時代の初め、地頭大井氏(甲斐源氏)の菩提寺(臨済宗)として創建されたが、その後戦火のため荒れ果て、位置も現在地へ移った。
 時あたかも甲斐国主・武田信玄が信濃の計略が一段落した永禄3年(1560)中興開基となり、北高全祝(ほっこうぜんしゅく)禅師を迎えて興隆をはかった。
一、信玄公の遺骨が霊廟に安置されている。(昭和6年5月29日境内にて遺骨発見)
一、武田家三代(信虎・信玄・勝頼)が厚く帰依した名僧北高禅師の墓所がある。
一、正親町天皇の勅額 「東山法窟」 (東山道第一の道場) が掲げられている。
一、信玄公が上洛の際、必勝祈願の千人法幢(多数の僧が道場に籠って行われる宗教的大行事)を、元亀3年4月から7月にかけて執行した。
一、武田文書を中心に、38通の佐久市指定文化財の古文書、その他が保存されている。

寛政7年(1795)の石灯籠

二十三夜塔

大田山の扁額が掛かる龍雲寺山門(楼門)

左手から見た山門(楼門)

覚皇殿の扁額が掛かる龍雲寺本堂

龍雲寺総門

総門の裏に参道口がある

総門に掛かる東山法窟の扁額

正親町天皇の勅額で東山道第一の道場を意味する

観世音碑