吉澤鶏山は通称は清右衛門、名を好謙、字は恭之また水蔫庵(みすずあん)と号した。宝永7年(1710)信州佐久郡岩村田宿吉澤彦右衛門の三男に生まれ、母方の養子となってその家督を継いだ。
 鶏山の業績は、学者としての面と俳人としての面との二つに大別される。
 享保20年(1735)26歳で寺子屋を開き、元文元年(1736)には最初の著述 「四隣譚藪」 を著した。中でも延享元年(1744)に著した 「信陽雑志」、明和4年(1767)著 「信濃地名考」 が最も知られ、何れも信濃史の代表的著作で、明治以後も数度にわたって復刊されている。
 俳人としての業績も20数巻の多きに及び、俳壇にも大きな足跡を印し、信濃文化に顕著な功績を残した。
 安永6年(1777)正月、数え年68歳で没し、一行山西念寺の墓地に葬られた。
 鶏山没後200年を記念し、後学の士相計ってこの碑を建てる。
 (佐久市教育委員会)

吉澤鶏山説明

世を乱髪に隠侍りて籬などいふがくどさに野菊かな

本堂から楼門を望む

地蔵菩薩、南無阿弥陀仏名号碑

瑠璃光薬師如来の扁額が掛かる薬師堂

鐘楼

六地蔵尊

西念寺は天正18年(1590)小田原の役で小諸城主として復権した仙石秀久が篤く帰依し菩提寺としたが、その後、元禄16年(1703)に内藤正友が岩村田藩主となり内藤家の菩提寺となった。

西念寺本堂

一行山の扁額が掛かる山門

12本の柱で支えられた楼門

吉澤鶏山句碑

西念寺別時念仏会報恩塔、地蔵菩薩坐像

水子地蔵尊

開山堂