塩名田と御馬寄の間を千曲川が流れている。今は頑丈な中津橋が架けられているから、これを渡るのに何の支障もないが、江戸時代には、これを渡るのは大変なことだった。橋を架けても、洪水で直に流されてしまったからである。しかもここは、江戸時代の主要街道の一つである中山道だったため、橋が流されたからといって、いつまでも放置して置くわけにはいかなかった。
 このため地元塩名田宿・御馬寄村をはじめとして、この地元の人々は、渡川を確保するために大変な苦労をしなければならなかった。
 木内寛先生の 「中山道千曲川往還橋」 という論文によれば、その橋には次のような変遷があった。
~享保5年(1721)御馬寄が投渡した橋・塩名田側が平橋(両岸から中洲へ架橋)
~寛保2年(1743)御馬寄側が刎橋(はねはし)・塩名田側が平橋
~寛延2年(1750)舟渡し
~享和2年(1803)御馬寄側が刎橋・塩名田側が平橋
~明治5年(1873)長さ70間余の平橋
 このように江戸時代を通じて、度々架橋方式が変わったのは、千曲川が 「近郷無類の荒川」 であり、2~3年に一回以上の割合で橋が流されたからである。
 幕府が崩壊し、明治時代になると、それまで130村による 「中山道塩名田宿・御馬寄村の間千曲川橋組合」 での維持・管理方式を続けることが出来なくなってしまった。
 そこで作られたのが船橋会社で、この会社によって明治6年(1873)に船橋(9艘の舟をつないで、その上に板をかけわたして橋としたもの)が架けられ、渡川が確保されたのである。舟つなぎ石は、その船橋の舟をつなぎとめたもので、だから上部に穴が開けられているのである。その後、明治25年に県によって木橋が架けられ、船橋の役割は終わった、 こうした歴史を、今に伝えているのが、舟つなぎ石なのであろう。
 (浅科村教育委員会)

中津橋
(左が人道橋、右が車専用橋)

舟つなぎ石説明

塩名田節碑