安川ハルは御代田村小田井、安川肅・すての一人娘として、明治36年3月4日に生まれた。御代田小学校、岩村田農学校女子部を卒業し、更に補習科を修業した。大正8年3月、郡教育会主催小学校准教員並びに師範学校準備講習を受け、裁縫科専科正教員免許を取得。同8年11月から翌9年8月31日まで小沼小学校に奉職した。
 退職して上京、女子師範学校を志したが、家庭の事情で呼び戻された。めったなことで、くじけない彼女は何を思ったか、敢然として髪を切り落とし、無断で南佐久郡小海村の心霊道で知られる油井まさこの弟子になったが、親に気付かれ連れ戻された。
 意思の強固な彼女は再び黒髪を惜しげもなく切り落とし、久留米かすりに小倉袴という男装で家を飛び出した。女性が断髪したという理由で警察に検束されたこともあった。
 東京第五中学校長伊東長七や福島大将令息の援助を受けながら、ゴミや人糞を焼却して肥料を作る研究に没頭した。農民が人糞と種麦を混ぜて手で蒔く。木を焼いて灰を作り肥料としている。草を刈って田の中へ入れている姿を見たのが研究の動機だったという。山中に入り炭焼きをしながらかまの研究をした。深夜、人の寝静まるのを待って人糞を運び焼却の実験をするなど、苦労がようやく報いられ炭焼きかまを改良したようなかまど 「安川式肥料燻炭炉」 が完成したのはハルが28歳の時であった。
 東京市役所の下水課長に面会してゴミと人糞を無料で受け、高価な肥料を買えない農民に、安く提供したいことを説明した。これで農家は安い肥料を手に入れることが出来る。東京市も200万世帯から出る27万貫のゴミと人糞を処分することが出来る。一度に手車10台分(約1000貫)のゴミと糞を15時間で完全に燻焼し、燻炭肥料が出来る。しかも副産物として、メチルアルコール、アンモニアなど7種類の高価な薬品が取れることが帝国大学で証明された。東京市の1日に出るゴミと糞から、約27,000貫の燻炭肥料が生産できる。1貫目30銭として1日8,000円の利益がある計算になり、将来期待されたが、彼女は塵芥の中にある菌が左手の傷から入り、難病に罹り床に伏した。このため肥料燻炭炉は軌道に乗せることなく止む無く中断した。
 昭和7年3月、この病気がきっかけで観音様を熱心に信じるようになった。読経の合間に病に罹った左手の小指・薬指・中指の3本に針を刺して血を硯にしぼり、筆にふくませて経文を7か月かけて書き写した。観音経220巻、十一面観音経30巻、般若心経25巻、計275巻、字数にして489,900字、血液1升5合になるという。この間、精進食である麦飯と菜汁の生活で身体はすっかり衰えたが、信仰心と精神力は衰えることがなかった。この血書は小笠原長生子爵を通じて、文京区本郷の曹洞宗大円寺に救国祈願のため納められた。住職である服部大元師は、千手観音を彫刻家高村光雲に彫らせ、台座の中に血書を入れ永く救国祈願をしたが、千手観音と血書は戦災で焼失した。その後も周りの人々が止めるのを聞かないで、血書で般若心経1,000巻の書写を目指したというが、どうなったかは不明である。
 戦争が激しくなり食料が不足すると、ハルは部下を大勢引き連れて寺沢へ開拓に入った。開拓地の許可を得るために、諸官庁との交渉役を受け、開拓の許可を取ったり開拓計画や仕事の割り振りの手際よさは、周囲の人々を驚かせたという。戦後、当時雲の上の人と思われていた中島今朝吾中将と堀内中将を自宅へ連れて来たことも、彼女の人脈の広さを伺うことができる。小学校へオルゴールやベルタイマーや全教室へテレビを寄付したり、上宿区へ共用の花嫁衣裳とその維持費を寄付して地域にも貢献した。
 平成3年3月16日、89歳で永眠した。戒名は 「静壽春英大姉」、墓石の裏には 「故安川ハル 刀自は独居生活を営み、近隣の温かい愛情に包まれ天寿を全うする。没後縁者、隣人、知己、交友相寄り相謀らい葬儀を行ない遺産を以って墓石を建立、菩提を弔い冥を念ず」 と屋台誠の言葉が書かれている。明治40年に追分から移築したという家と屋敷や財産は本人の遺志により、上宿区へ寄付された。家は古くなったので取り壊され、そこには上宿区の人たちによって 「おはる地蔵」 が建立された。

筆塚

 慶長7年(1602)に中山道が整備された。小田井宿は、その69次のうち日本橋から数えて22次、江戸から40里14丁の距離にある。軽井沢町追分宿、佐久市岩村田宿の間の宿であり、比較的こじんまりとした宿場で、婦女子が多く泊まったことから別名を 「姫の宿」 ともいう。本陣、問屋、旅籠等の建物が現在残っている。

おはる地蔵

安川ハル説明

小田井宿跡入口標柱

道祖神