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東海道   (関~土山


平成29年9月30日(日)   ☀|☁    関~土山    21.0㎞
9月29日(金)から4日間は天気に恵まれる予報だったので、急遽、出掛けることとした。前回の続きは、関宿西の追分からであり、この先、鈴鹿峠を越えて土山へ向かうため、前日から亀山市内に宿泊し早朝に関宿に入って出発した。

日の出 関宿家並み 西の追分 ころび石
早朝の亀山駅で日の出を迎え、一駅先の関駅へ向かう。 関駅から百五銀行前の十字路に出て、まだ人通りのない伊藤本陣などのある中町を通り、地蔵院から先の新所を抜けて、前回歩いたところを再度確認しながら関宿の西の追分まで約1kmほど進む。 前回はここで終了したが、西の追分には元禄4年(1691)の谷口法悦題目碑が建っている。
題目碑には、「南無妙法蓮華経」 「ひたりハいかやまとみち」 と刻まれ、道標になっている。
西の追分から国道1号線に合流して先に進むと、右手の駐車場の中に直径2mほどの岩石がある。
この岩石は、「弁慶ころがし」 と言われ、何度片付けても街道に転び出たという。

旧道口 市瀬橋 常夜燈 旧道口・西願寺
ころび石のある駐車場を過ぎると、右手に入る旧道口がある。
ガードレールに道標が貼ってあり、「東海道坂下宿→」 と記されている。
旧道を進むと左手を流れる鈴鹿川に架かる昭和54年竣工の市瀬橋がある。
かつては、これより下流に旧道(橋)があった。鈴鹿川は、何処か工事中なのか赤茶けた色をして流れていた。
市瀬橋を渡って市之瀬村の集落を進むと、右手に常夜燈が建っている。 常夜燈の先で国道1号線を横切って、その先の旧道へ入って行く。
旧道口には地蔵堂があり、左手には常夜燈が建ち、その奥に浄土真宗本願寺派の龍玉山西願寺がある。西願寺の創建年代等は不詳である。

国道1号線 藤の茶屋跡 弁天橋 市瀬一里塚跡
西願寺の先で国道1号線に合流する。
早朝の為か国道1号線を通る車は殆んどなく、中央に三角の筆捨山が見えている。
筆捨山バス停を過ぎると、右手に僅かに残る旧道跡がある。
藤の茶屋は、筆捨茶屋とも言われ、4軒の茶屋があったことから四軒茶屋とも称された。
対岸に見える筆捨山は、標高289mで山腹に奇岩がむき出しに表れ、元々の名を岩根山という。旧道口には筆捨山の説明板が建っている。
先に進むと鈴鹿川に架かる弁天橋がある。
橋の袂に橋の名前の由来となった弁天社があるようだが、確認できなかった。
橋の手前右手には、国道改良紀念碑がある。
弁天橋の渡り詰め左手の段上に、市瀬の一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて107里目の一里塚跡である。

旧道口 沓掛集落 超泉寺 庚申堂
一里塚跡の直ぐ先、右手に旧道口があり、入口左角に東海道道標が建っている。 先に進むと左手の鈴鹿川に沿った沓掛の集落が続いている。
沓掛の地名は、厳しい山道に由来し、傷んだ草履(沓)を木に掛け、道中の安全を祈ったことによる。
右手の沓掛公民館の奥に真宗大谷派の超泉寺がある。
超泉寺の創建年代等は不詳である。
超泉寺を出て沓掛集落を進んでいくと、坂下簡易郵便局から50mほど先の右手段上に庚申堂がある。
お堂は新しくなっているが、中には宝珠のような石が祀られている。

鈴鹿馬子唄会館 鈴鹿馬子唄発祥之地碑 河原谷橋 坂下宿家並み
先に進むと右手筋に東海道五十三次標柱が並んだ坂道がある。
の坂道の途中左手に鈴鹿馬子唄会館があり、右手段上には旧坂下尋常高等小学校の校舎が保存されている。
東海道五十三次標柱の先で下から回り込んできた道と合流するところに、鈴鹿馬子唄発祥之地碑と東海道五十三次阪之下筆捨山の画が建っている。 鈴鹿馬子唄発祥之地碑の前は貯木場となっており、その先は集落が途絶えた林の道で、次の坂下宿の集落に入るところに河原谷橋がある。 河原谷橋を渡ると坂下宿に入り、やや上りの道となる。
街道脇には地蔵堂があり、まむし注意の立札も建っている。右手には所々に石垣が見られるが、かつて家が建っていたところで解体した跡である。

松屋本陣跡 大竹屋本陣跡 梅屋本陣跡 法安寺
街道左手の坂下集会所の手前に松屋本陣跡があり、集会所の脇に坂下宿説明が建っている。
坂下の地名は、鈴鹿峠の坂下にあたることに由来する。坂下宿は、当初片山神社の手前にあったが、慶安3年(1650)の洪水で壊滅し、現在時に移った。
坂下集会所の隣の茶畑の前に、大竹屋本陣跡がある。 大竹屋本陣跡の隣に位置するところに、梅屋本陣跡がある。 梅屋本陣跡の向かいに曹洞宗の鈴鹿山法安寺がある。
法安寺の創建年代等は不詳であるが、庫裡の唐破風造の玄関は、松屋本陣の玄関を移築したものであり、山門前には享保4年(1719)の南無阿弥陀仏名号碑、嘉永7年(1854)の西国三十三所順拝所碑、庚申堂などがある。

中乃橋 小竹屋脇本陣跡 金蔵院跡 井戸跡
街道に戻ると、法安寺の横を流れる鈴鹿川の支流に架かる中乃橋を渡って行く。 中乃橋を渡ると、渡り詰め右手に小竹屋脇本陣跡がある。 先に進むと右手に金蔵院跡の石垣がある。
金蔵院は、仁寿年間(851~853)に創建され鈴鹿山護国寺とも呼ばれた。江戸時代初期には将軍家の御殿が設けられ、上洛途中の家康や家光が休息した。その後、明治に入り廃寺となり、現在、石垣だけが残っている。
石垣の前には地蔵堂があり、身代わり地蔵尊が祀られている。
金蔵院跡の直ぐ先に石垣があり、たまたま居た男性に何かの跡か尋ねると、かつて民家があった場所で、民家が使用していた井戸跡とのことである。

石像 岩屋十一面観音菩薩 国道1号線合流 道標
民家が無くなって先に進むと、右手の石垣の上に男女2体の石像が建っている。
男性は刀を差しており、女性は杖を突いているが、詳細は不明である。
石像の直ぐ先右手に岩屋十一面観音菩薩碑が建っている。
この碑の奥に観音堂があり、阿弥陀如来・十一面観音菩薩・勢至菩薩の三体が安置されている。万治年間(1658-61)法安寺の実参和尚が旅人の道中安全を祈って、高さ18mの巨岩の岩窟に造立したものである。
境内には、石燈籠・石経塔・阿弥陀仏碑などがあり、観音堂の脇には清滝が流れている。
岩屋観音堂の先で国道1号線に合流し、側道を進んで行く。
合流地点右手には、東海自然歩道の入口もあり、入口に建つ道標には 「片山神社1.1㎞、バス停鈴鹿峠1.2㎞、旧東海道鈴鹿峠1.5㎞」 と記されている。
街道を進むと国道1号線の側道から分岐する手前に道標が建っており、「片山神社0.2㎞、旧東海道鈴鹿峠0.6㎞」 と記されている。
道標の奥の段上には、大正4年(1915)の南無阿弥陀仏名号碑が建っている。

鈴鹿峠登り口 地蔵堂 旧坂下宿付近 片山神社
先に進むと国道1号線の側道から分岐して、右手の林に入る鈴鹿峠への登り口がある。
登り口を入ると右手に道標があり、直ぐ左手に片山神社社標が建っている。
林の道を先に進むと、街道左手の窪地に小さな地蔵祠と新しい地蔵堂が建っている。 地蔵堂のあるこの辺りは古町と呼ばれ、慶安3年(1650)9月の大洪水で宿場が壊滅するまで坂下宿のあった所である。
街道を横切る沢跡に琴の橋が架かり、沢の上流の右手に南無阿弥陀仏名号碑などが残っており、坂下宿の説明板も建っている。
坂道をどんどん上って行くと、正面に片山神社がある。片山神社は、延喜式内社で、元は三子山に祭祀されていたが、火災により永仁2年(1294)に現在の場所に移された。
平成11年に社殿などを焼失したことから、鳥居の先の石段を上がると右手に新しい愛宕社があるが、更に上った旧社殿があった辺りは更地で、奥まったところに片山神社を祀った社がある。

道標 国道1号線高架 広場 芭蕉句碑
東海道は、片山神社の前から 「鈴鹿坂八丁二十七曲り」 の急坂が始まり、「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」 と言われた街道の難所である鈴鹿峠へと続いている。
道標の後ろには、鈴鹿流薙刀術発生之地碑、延享元年(1744)の常夜燈など4基の常夜燈が並んでいる。
常夜燈の先で石垣のあるつづら折りの急坂を上ると、頭の上に国道1号線の高架が現れる。
街道は高架の下を通り、反対側の斜面へ上って行く。
国道1号線を潜り抜けていくと、ちょっとした広場に出る。
この広場の奥に更に登り口があり、手前に東海自然歩道案内図が建っている。案内図には、鈴鹿峠・坂下宿・筆捨山・観音山の案内が記載されている。
広場から階段を数段登った正面に、平成2年建立の芭蕉句碑がある。
句碑には、「ほっしんの初に越ゆる鈴鹿山」 と刻まれている。裏面には 「貞享2年(1685)2月に伊賀を出発した芭蕉は、奈良・京をまわり、3月末頃鈴鹿山と呼ばれるこの峠を越えて江戸へ向かった。「ほっしんの」 句は、古くこの峠を越えた西行 「鈴鹿山憂世をよそにふりすてていかになり行わが身なるらん」 に思いをよせて詠まれたものである」 と刻まれている。

馬の水飲み鉢 道標 田村神社跡 鏡岩
芭蕉句の直ぐ上に馬の水飲み鉢がある。
かつて街道を上り下りする人馬のために水溜が置かれていた。
近くには鈴鹿峠説明が建ち、この先は峠道らしいところもあり、右手眼下には国道1号線が見えている。
峠道を上り詰めると平らなところに出て、左手に東海自然歩道道標が建っている。
道標には、「←片山神社0.4km・坂下1.7km」 「山女原4.1km・安楽越6.6km・石水渓9.3km→」とあり、裏側に向かって 「田村神社跡10m・鏡岩150m」 と記されている。
道標に従って10m程林の道を進むと、田村神社舊跡碑が建っている。
鈴鹿峠に悪鬼が出没して旅人を悩ませており、嵯峨天皇は坂上田村麻呂に勅命を出してこれを平定させたという。田村神社は土山宿にもあり、坂上田村麻呂を祀っているが、かつてはこの地にも社殿があったのであろう。
田村神社跡の先を更に100m程進んで行くと、鈴鹿山の鎧岩標柱があり、その奥に三角形に見える鏡岩がある。
標柱には、「硅岩が断層によってこすられ、名のとおり露出面につやが出たものである。 鏡岩面の規模は縦2.3m、横2m。昔、この峠に棲む盗賊が、山道を通る旅人の姿をこの岩に映して危害を加えたという伝説から、俗に 「鬼の姿見」 とも云われている。」 と記されている。

道標 東海自然歩道道標 万人講常夜燈 国道1号線合流
街道に戻って平坦な林道を進むと、途中に鈴鹿峠説明があり、林を抜けた左手に道標が建っている。
道標には、「左三重県伊勢の国・右滋賀県近江の国」 と刻まれている。
道標の隣は茶畑が広がり、その前に東海道碑・東海自然歩道道標・東海自然歩道説明が建っている。説明によると東海自然歩道は、東京の 「明治の森高尾国定公園」 から大阪の 「明治の森箕面国定公園」 まで、美しい自然や文化財をむすぶ約1,300kmの道であるという。
この東海自然歩道解説の向かいの道に入って行くと、右手の林の中に六地蔵尊が建っている。
街道に戻って茶畑の間を進むと、右手に万人講常夜燈が建っている。
ここにはトイレのある東屋があり、峠を越えて休憩するにはちょうど良い場所である。ここで暫し、昼食休憩とした。
万人講常夜燈の先で、トンネルを抜けた国道1号線に合流する。

旧道跡 鳥居・常夜燈 山賊茶屋 馬頭観音・道祖神
国道1号線に合流して直ぐ右側に渡ると、やや坂道になった僅かな旧道跡がある。
旧道の途中に名残松があったが、現在は伐採されて切株だけが残っている。
僅かな旧道を抜けて先に進むと、右手筋角に大正5年(1916)の鳥居と明治27年(1894)の常夜燈が建っている。
この先で住人から聞いた話では、この鳥居は昔はもっと南側にあったが、国道1号線の拡張工事で道路脇に追いやられたものだという。
街道左手には廃業した山賊茶屋がある。
茶屋の前には、鈴鹿峠の馬子たちの俚謡(りよう) 「のぼりくだりの おつづら馬 さても美事な 手綱染かいな 鈴をたよりに 小諸節 坂は照る照る 鈴鹿は曇る 間の土山 雨が降る」 と記された看板が建っている。
先に進むと中山交差点の左手に馬頭観音と男女双体道祖神が建っている。

熊野神社 山神社 一本松緑地 十楽寺
中山交差点の直ぐ先、左手に熊野神社鳥居があり、ここから100mほど参道を南西に進むと熊野神社がある。
熊野神社の創建年代等は不詳であるが、社殿は真新しく、境内には津島神社・愛宕神社・稲荷神社の境内社がある。
街道に戻って国道1号線の東京より435㎞ポストを過ぎると、左手の国土交通省土山スノーステーションの隣にポツンと山神社の石祠が建っている。 先に進むと、右手に一本松緑地がある。
ここには一本の松と一本松緑地碑・常夜燈があるが、近くに説明もなく不明なポケットパークである。
一本松緑地の国道1号線を挟んだ向かい側に浄土宗の清浄山二尊院十楽寺がある。
十楽寺は、寛文年間(1661-72)巡化僧広誉可厭大和尚が万人講を勧募し本堂、庫裏等を完成し、念仏道場と定め、浄土宗総本山知恩院の直轄末寺となった。文化財案内によると、本尊は日本最大級の丈六阿弥陀仏如来坐像で、ほか十一面千手観音、救世観音坐像、摩耶夫人立像などが安置されている。

山中城址 旧道口 地蔵堂 新名神高速道路高架
十楽寺を出ると、十楽寺バス停の北側にある熊谷板金の駐車場脇に山中城址碑が建っている。手前の斜面には山神碑があるが、遺構は見られない。
山中氏は、橘諸兄の後裔橘義清が鈴鹿峠山中に住して山中氏を称し、山中俊直の代に鈴鹿山麓の山中村地頭に任ぜられ、建久5年(1194)此処に城を築いた。
先に進むと右手に旧道口があり、入ると直ぐ小公園がある。
小公園内には、鈴鹿馬子唄碑・東海道鈴鹿中山碑・石燈籠などがある。
公園の先で旧山中村に入ると、右手に地蔵堂があり、堂前に2基の嘉永6年(1853)の常夜燈が建っている。
常夜燈の竿石には、「地蔵大菩薩」 と刻まれ、堂内には小社があり、中に地蔵尊が安置されている。
地蔵堂の先を進むと、街道上を新名神高速道路の高架が横切っている。

山中一里塚跡 旧道跡 若宮神社社標 火頭古神社
国道1号線に突き当たると、右手に山中一里塚公園があり、左手には第二名神の記念モニュメントが建っている。
山中一里塚公園には、櫟野観音道(大原道)道標・鈴鹿馬子唄之碑・馬と馬子の石像などがある。
ここは江戸日本橋から数えて109里目の一里塚跡である。
山中一里塚公園の国道1号線を挟んだ向かい側に、山手に入る旧道跡がある。
この道は、直ぐ先で草竹セラミック株式会社に突当り、消滅している。
国道1号線を進み、猪鼻交差点のところに建つ若宮神社社標のところから、山中川方向に下って旧道に復帰する。 旧道の右手に流れる山中川を渡ったところに火頭古(ひずこ)神社がある。
火頭古神社は、近隣の黒川集落に祀られていた八王子明神の分霊国狭槌命を貞享8年(1691)に勧請したのが始まりと云われる。
祭神は国狭槌命であるが、平成17年完成の拝殿には稲荷神社と浅間神社が合祀されている。

猪鼻村碑 浄福寺 旅籠中屋跡 猪鼻村碑
火頭古神社を出て工場の前から旧道に復帰すると、左手に東海道猪鼻村碑が建っている。
猪鼻村は、土山宿から坂下宿間の立場 (休憩所) があり、草餅や強飯が名物であった。
猪鼻村に入って間もなく右手に臨済宗の医王山浄福寺がある。
浄福寺は、天正年間(1573-91)僧洞成禅照大禅師による開基で、本尊は薬師如来坐像で伝教大師作と伝わる。
山門脇には、赤穂浪士の一人で俳人であった大高源吾(俳号子葉)の句碑がある。
浄福寺を過ぎると右手に旅籠中屋跡がある。
傍らには、明治天皇聖蹟碑と明治天皇の行幸を刻んだ副碑が建っている。
村の西口に当たるところに東海道猪鼻村碑があり、ここで国道1号線に合流する。
かつて旧東海道は、ここから国道1号線を横切り、西側を通って、その先で榎島神社へ繋がっていたが、現在、その道は消滅しているため国道1号線を進んで行く。。

榎島神社 道祖神 蟹坂古戦場跡 道標
国道1号線を進むと、右手にかつて猪鼻村から繋がっていた旧道があり、旧道口の右手に榎島神社がある。
榎島神社は白川神社の末社で、境内には白川神社御旅所碑が建っており、段上には坂上田村麻呂を祀る田村社と蟹社がある。鳥居の傍には推定樹齢400年の御神木のシイが立っている。
街道に戻ると右手に双体道祖神が並んでおり、赤い前掛けには、「家内安全」 「交通安全」 と書かれている。
ここから田村神社手前までが旧蟹ヶ坂村である。
先に進んでジーテクト滋賀工場の敷地内を通り、ジーテクト滋賀工場への高架を潜ると、右手に蟹坂古戦場跡がある。
ここには蟹坂古戦場跡碑・蟹坂地区圃場整備竣功記念碑が建っている。
田村川の手前右手の林に紀元2600年紀念(昭和15年)建立の道標が建っている。
道標には、「従是北壹町拾四歩」 と刻まれている。

高札場跡 海道橋 田村神社 道の駅「あいの土山」
田村川に架かる海道橋(旧田村橋)の手前に高札場跡がある。
復元された高札には、道中奉行所から出された規則(定め書)の内容が書かれており、一般の旅人については一人につき三文、また荷物を馬に乗せて渡る荷主についても馬一頭につき三文の渡り賃をとることが書かれている。
田村川に架かる海道橋(旧田村橋)は、平成17年3月に架け替えられた。
海道橋の渡り詰めには、井上士朗の句碑・歌川広重画 「東海道五拾三次之内土山春之雨」 がある。
木々に囲まれた道を進むと、右手に田村神社の二の鳥居がある。
田村神社は、鈴鹿峠に出没する悪鬼を退治した坂上田村麻呂の御遺徳を仰ぎ、弘仁3年(812) 嵯峨天皇の勅令により坂上田村麻呂をこの土山の地に祀ったことに始まる。
参道には安政4年(1857)の石燈籠・狛犬などが建っている。街道は、二の鳥居の正面参道を直進していく。
田村神社一の鳥居前で国道1号線を渡ると、右手に道の駅 「あいの土山」 がある。
国道1号線を渡った左手角には、かにが坂飴店があり、道標が建っている。

生里野公園 土山宿東口 地蔵堂 扇屋伝承文化館
道の駅「あいの土山」の脇を抜けると、突当り角に生里野公園があり、東海道土山宿碑・土山宿案内図がある。 生里野公園の直ぐ先右手に東海道土山宿碑が建っている。
ここは土山宿の東口で、ここから集落が始まり、家々には屋号が掛けられている。土山宿は東海道をはさんで北土山村・南土山村の二村が並立する二つの行政組織が存在した。
東海道土山宿碑から程なく十字路を越えた左手に地蔵堂がある
ここには新しい道標・生里野地蔵公園碑・上島鬼貫句碑 「吹けばふけ櫛を買いたり秋乃風」 がある。
先に進むと右手に扇谷伝承文化館がある。
扇屋伝承文化館は、江戸時代、宿場町として栄えた土山宿で扇や櫛を販売していた商家 「扇屋」 を地域の住民が購入し、平成21年に改修したものである。
館内は無料で一般公開されており、この地の名産・名品が紹介されている。

地蔵堂 旅籠大槌屋跡 土山一里塚跡 土山宿家並み
扇屋伝承文化館の脇の筋を挟んだところに地蔵堂がある。
地蔵堂には着色された2体の地蔵尊と重軽石と思われる2つの丸石が安置されている。
地蔵堂から20m程先右手に旅籠大槌屋跡がある。 続いて右手2軒程先に土山の一里塚跡がある。甲賀市土山町内の設置場所は、山中地先、土山地先と大野市場地先であったが、現在その跡はほとんど残っていない。 土山のこの地名を一里山と呼称しているのも、この一里塚に起因している。
ここは江戸日本橋から数えて110里目の一里塚跡である。
一里塚跡の先を進むと立派な塀を構えた家や連子格子の旧家が見られる。

旅籠寿し屋跡 来見橋 白川神社 旅籠木屋跡
先に進むと来見川手前の左手に旅籠寿し屋跡がある。 旅籠寿し屋跡の直ぐ先で、来見川に架かる来見橋を渡る。
来見橋の欄干は、瓦を乗せた土塀風な造りで、壁面に大名行列・茶店の画や土山茶もみ唄などが組み込まれている。
来見橋を渡って直ぐ、左手筋奥に白川神社がある。
白川神社の創建年代等は不詳であるが、古くは牛頭大王社・祇園社などと呼ばれていた。
拝殿内に有る本殿前には願掛け石があり、境内には愛宕神社、若宮神社・松尾神社・天満宮などを合祀した権殿、稲荷神社などの境内社がある。
街道に戻ると右手に旅籠木屋跡がある。
この先に隣接して海老屋跡・山本屋跡・簾屋跡の旅籠跡碑が建っている。

油屋平蔵跡 三軒の旅籠跡 旅籠井筒屋跡 旅籠平野屋跡
街道左手に旧商家造の大原製茶場が建っているが、ここは油屋平蔵跡である。 油屋平蔵跡の直ぐ先、右手に三軒の旅籠跡がある。
並んで建っているのは、柏屋跡・大工屋跡・釣瓶屋跡である。
三軒の旅籠跡の向かいに旅籠井筒屋跡があり、森鴎外の祖父森白仙の説明が建っている。
森白仙は津和野藩亀井家の典医であり、参勤交代に従って江戸より旅の途中、病のためここで息を引き取った。
街道右手に、森鴎外が祖父森白仙が亡くなった土山宿を訪ねて来た時に宿泊した旅籠平野屋跡がある。ここには森鴎外が泊まった平野屋説明が建っている。
平野屋跡の隣には、旅籠万屋跡・旅籠はた屋跡があり、向かいには旅籠木綿屋跡、その隣に民芸茶房のうかい屋がある。

土山宿(堤家)本陣跡 問屋場跡 東海道伝馬館 土山宿問屋宅跡
街道左手に土山宿本陣跡の堤家(二階屋)が建っている。土山宿には、吉川町の土田家本陣と、中町の堤家本陣の二軒があった。
ここには堤家(二階屋)本陣跡説明が建っている。
土山宿本陣跡の直ぐ先右手に問屋場跡・成道学校跡がある。
傍らに建つ説明に次のように記されている。土山宿の問屋場は、中町と吉川町にあったとされるが、問屋宅に設けられていたこともあり、時代と共にその場所は移り変わってきた。明治時代の宿駅制度の廃止にともない問屋場も廃止されたが、その施設は成道学校として利用された。
問屋場跡の奥に、土山宿や東海道についての展示や特産品販売・体験工房のある資料館 「東海道伝馬館」 がある。
ここには文豪森鴎外来訪の地碑があり、復元された問屋場や大名行列のジオラマがある。
街道に戻ると右手に堂々たる造りの土山宿問屋宅跡がある。
土山宿は、東海道をはさんで北土山村・南土山村の二村が並立する二つの行政組織が存在し、土山宿の問屋は、この両村をまとめて宿駅業務を運営していく重要な役割を果たした。

土山宿(土山家)本陣跡 土山中央公民館 旅籠山村屋跡 大黒屋本陣跡
問屋宅跡の隣に土山宿(土山家)本陣跡がある。土山家本陣は寛永11年(1643)徳川三代将軍家光が上洛する際に設けられた。 現存する土山家文書の 「本陣職之事」 によれば、土山家の初代は甲賀武士土山鹿之助であり、三代目喜左衛門の時に初めて本陣を務めた。
建物脇には、明治天皇聖跡碑と行幸の様子を詠んだ哲学者井上圓了の漢詩碑が建っている。
土山家本陣跡の向かいに旅籠俵屋跡、その隣に旅籠山形屋跡があり、その先左手の土山中央公民館の敷地内に旅籠山田屋跡、林羅山の漢詩碑が建っている。 先に進むと左手に旅籠山村屋跡があり、更にその先右手に旅籠中嶋屋跡がある。 旅籠中嶋屋跡の先で十字路を渡ると、右手角に大黒屋公園があり、園内に大黒屋本陣跡・問屋場跡・高札場跡がある。
ここには高桑闌更句碑 「土山や唄にもうたふはつしぐれ」 のほか、明治天皇聖跡碑などがある。

土山宿陣屋跡 大黒橋 常明寺 平成万人灯
先に進むと左手に土山宿陣屋跡がある。
土山は、徳川幕府の直轄地であったため、江戸時代勘定奉行の配下である代官が詰めて宿場を治めていた。
土山宿陣屋跡の直ぐ先に、吉川に架かる大黒橋がある。
先に渡った来見橋と同様、欄干に瓦を葺いた土塀風の造りで、
壁面に鈴鹿馬子唄や街道画が組み込まれている。
大黒橋を渡ると、左手筋奥に臨済宗東福寺派の瑞宝山常明寺がある。常明寺は、和同年間の建立と伝えられ、貞和5年(1349)純翁了愚が九条経教の命を受け中興した。
境内には芭蕉句碑 「さみだれに 鳰(にお)のうき巣を 見にゆかむ」 があり、墓地にはこの地で亡くなった森鴎外の祖父森白仙の供養塔が建てられている。
街道に戻って街道左手の旅籠藤屋跡の向かいの筋を進み、国道1号線に出ると大きな平成万人灯が建っている。

土山宿西口 道標 旧道口 東海道道標
街道に戻ると、左手に旅籠竹屋跡、右手に旅籠常盤屋があり、その先で国道1号線に突き当たる。
突当り手前の右手角には、東海道土山宿碑、万人講常夜燈が建っている
国道1号線に合流して20m程進むと、右手筋の左角に道標が2基建っている。
大きい方は天明8年(1788)に建立されたもので 「高埜世継観音道」と刻まれており、高野の世継観音(永源寺)への道標であり、
小さい方は文化4年(1807)に建立されたもので、「右、北国たが街道、ひの、八まんみち」 と刻まれている。
道標から20m程先右手に旧道口があり、ここから松尾川へ向かって旧道が続いている。 先に進むと、十字路角に東海道道標と迂回路図が建っている。
旧街道は、このまま直進して野洲川に突き当たるが、その先の道は消滅しているため、迂回する必要がある。迂回路図では、歌声橋を渡ることになっているが、迂回し過ぎであるため、国道1号線の白川橋を渡って対岸に行くこととした。。

野洲川 南無阿弥陀仏名号碑 瀧樹神社神饌田碑 渡し口
国道1号線に出て白川橋を渡ると、上流方向がかつての松尾川の渡し場跡方向である。
秋から冬は木橋か土橋が架橋され、春から夏は舟か徒歩渡しであった。
白川橋の渡り詰めの信号を右折すると、直ぐ右の林に南無阿弥陀仏名号碑と六地蔵尊が建っている。
この場所は、野辺送りの引導場のようである。
少し先に進むと左手の田圃の前に瀧樹神社神饌田碑が建っている。
この田圃は、土山町前野地区にある瀧樹神社の神に供える稲を作っている場所である。
右手の野洲川へ向かう坂道が、渡し場への入口である。
坂の右手に見える小さな石碑は、鈴鹿馬子唄を刻んだもので、「坂は照るてる鈴鹿は曇るあいの土山雨が降る」 と刻まれている。
ここから向かい側へ延びる道が旧道である。

旅籠水口屋跡 秋葉神社 日雲神社 垂水斎王頓宮跡
旧道に復帰して間もなく、左手の田圃の角に旅籠水口屋跡碑が建っている。
この辺りは、かつての松尾村であり、立場であった。
左に茶畑を見て先に進むと、右手の林に秋葉神社の覆屋があり、中に真新しい秋葉大権現を祀る本殿がある。 街道に戻って直ぐ先の右手筋を入ると、右手に日雲神社がある。
日雲神社の創建年代等は不詳であるが、天照大神を奉祭した倭姫命が、鎮座地を求めて各地を巡行している時滞在したという元伊勢の候補地である。
鳥居脇には、甲可日雲宮と刻まれた社標があり、境内には稲荷神社の境内社がある。
日雲神社前の筋を50m程進んだ左手の林の中に垂水斎王頓宮跡がある。
ここは平安時代初期から鎌倉時代中期まで、約380年間、31人の斎王が伊勢参宮の途上に宿泊した頓宮が置かれたところである。斎王とは天皇が即位するたびに伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女のことである。
ここには伊勢神宮遷宮時の古材による社殿、垂水斎王頓宮跡碑が建っている。

道標 地蔵堂 東海道案内 瀧樹(たぎ)神社
街道に戻って進むと、左手にあるガソリンスタンドのところで国道1号線を横断し、その先の筋に入って行くのが旧街道である。
この筋の入口角に 「伊勢大路(別名阿須波道)」 と刻まれた昭和56年(1981)建立の道標が建っている。
道標の先を進むと、左手に地蔵堂がある。
お堂内には、着色された美しい弥勒如来坐像が安置されている。
地蔵堂の直ぐ先で、左から来る道と合流する。
この道は、野洲川の手前で迂回路として示されていた歌声橋を渡る道である。
この合流地点に東海道案内と垂水斎王頓宮跡説明板が建っている。
先に進んで県道24号線の信号交差点を過ぎると、左手筋に瀧樹神社社標と瀧樹神社由緒があり、400m程先に瀧樹神社がある。
龍樹神社は、約2000年前からの神聖なる地として知られている神社であり、瀧樹大明神宮と天満宮の二社が祀られている。

牛頭天王 瀧樹神社表参道 前野地区町並み 地安寺
街道に戻ると、直ぐ右手に牛頭天王を祀る小社が2つある。 先に進むと左手に瀧樹神社の表参道があり、街道前には、瀧樹神社社標と瀧樹神社の説明が建っている。 前野地区は、所どころに茶畑があり、のどかな町並みが続いている。
前野の地名は、瀧樹神社の前に開けた野原に由来するという。
先に進むと右手の前野集会所の隣に、黄檗宗の福慧山金毛院地安寺がある。
地安寺は、龍渓禅師による開山で皇室と縁深く、境内には後水尾法皇の像・位牌を安置した御影堂などがある。

前野保五郎旧居跡 茅葺の名残 垂水頓宮御殿跡 諏訪神社
地安寺を過ぎると右手に虫篭窓の付いた旧家や米屋の屋号を掛けた旧家があり、十字路を渡ると右手に前野保五郎旧宅跡がある。
前野保五郎は頓宮村で生まれ、酒造業で巨額の富を得て庄屋も勤めるようになったが、頓宮村と隣の野上野村が水不足に悩む様を見かねて、文政8年(1825)に私財を投げ打って、野上野用水を完成させた。
先に進むと左手に三角屋根の旧家がある。
現在はトタン葺きであるが、かつては茅葺であった旧家である。
三角屋根の家の直ぐ先左手に、垂水頓宮御殿跡がある。伊勢神宮に伝わる 「倭姫命世記」 によると、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天照大神のご神体を奉じて、その鎮座地を求めて巡行したと伝えられる。 土山町頓宮には巡行地のひとつである 「甲可日雲宮」 があったとされ、この時の殿舎がこの付近に設けられたことが 「御殿」 という地名の由来とされる。 また後世には垂水頓宮に関連する施設も造営されていたと伝えられる。 垂水頓宮御殿跡から程なく、左手に諏訪神社がある。
諏訪神社は、天文11年(1542)甲賀三郎兼家が、関東から故郷に帰る途次、信濃国諏訪大社より分霊したもといわれる。境内には金刀比羅神社・山神社・稲荷社がある。

長泉寺 土山地先一里塚 大日川掘割跡 東海道反野畷碑
諏訪神社の直ぐ先右手に、浄土宗の生徳山長泉寺がある。
長泉寺の創建年代は不詳であるが、永禄元年(1558)喜伝中興と伝わり、本尊は阿弥陀如来で、延命地蔵尊も祀っている。
境内には、観音堂・水子供養五重塔などがある。
長泉寺を過ぎると、右手筋角に土山地先の一里塚跡がある。
土山町内の設置場所は、山中地先、土山地先、大野市場地先であったが、現在その跡はほとんど残っていない。土山地先の一里塚は、土山町北土山の大森慶司宅付近にあったと伝えられ、この付近の字名は一里山と名づけられている。ここは江戸日本橋から数えて111里目の一里塚跡である。
大日川の手前に大日川掘割跡がある。
大雨になると市場村・大野村方面の水害は酷く、大野村が市場村との境に堤を築くと、市場村は更に甚大な被害を受けた。
このため市場村は排水路を堀割りし、野洲川に流すことを計画し、元禄16年(1703)に完成した。
大日川に架かる大日川橋を渡ると、左手に東海道反野畷碑が建っている。
反野畷碑の脇には大日川掘割跡説明が有り、ここから西へ400m程松並木の畷道が続いている。

領堺石 東海道反野畷碑 花枝神社
先に進むと左手の植栽に隠れて領堺石 「従是東淀領」 が建っている。
土山には、淀藩の飛地があった。
領堺石の直ぐ先に東海道反野畷碑が建っている。
大日川橋からここまで、ほぼ400mが畷道である。
東海道反野畷碑の先で左に野洲川を見て、100m程進んだ右手筋角に花枝神社鳥居が建っている。社殿はここから北へ300m程先の国道1号線を越えたところにある。
花枝神社は、嘉祥3年(851)甲賀郡喜多牧大野村喜多兵官が坂本の日吉大社・八王子社の分霊を勧請したと伝えられている。本日はここで終了し、花枝神社前から1時間に1本のバスで水口へ向かう。

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