虚白は、僧名を松堂慧喬といい、安永2年(1773)、京都の神官の子として生まれ、少年時代を常明寺で過ごした後、京都や鎌倉で雲水生活を送りました。
この修行時代に俳諧を志し、京都で芭蕉堂を営む高桑蘭更の門人となり、桜井梅室らと交流しました。
文化4年(1707)、常明寺十五代住持職となり、寺門の興隆と檀家の強化に意を注ぐかたわら、俳人として活動し 「浮巣社」 を主催、三好赤甫など多くの門人の指導にあたりました。 また、南土山の五瀬に草庵を結び、「猥芋軒」 と名付けて隠遁生活を送り、禅俳一如の境地に至りました。
後、天保6年(1835)に東福寺、天保14年(1843)に南禅寺の住持職に任ぜられ、 紫衣を赦されるまでになり、弘化4年(1847)74歳で東福寺にて亡くなりました。
辞世句 おほけなき 床の錦や 散り紅葉
平成25年2月25日 甲賀市教育委員会 土山の町並みを愛する会
鴎外の祖父白仙は、津和野藩主の参勤交代に従って江戸へ出たが、帰国の際に発病し、遅れて国もとへ向かう途中、ここ土山で病死した。 万延元年(1860)11月7日である。遺骸は常明寺の墓地に葬られた。
鴎外は祖父への思慕深く、小倉在住時代、明治33年軍医部長会出席のため上京の途中、土山に立ち寄り、常明寺を訪れた。 荒れ果てた墓を探し当てた鴎外は、住職固道に願い出て、墓を境内に修した。
明治39年に祖母きよが、大正5年には母ミネが没。遺言により常明寺に葬られた。 鴎外は祖父母と母の遺跡に心を尽くし、「維時大正7年3月新添 施主東京森林太郎」 と墨書された錦の段通を寄贈している。
昭和28年、三人の墓は津和野の永明寺に移されたが、今は昭和昭和63年に鴎外の子孫により建立された供養塔が立っている。
平成17年2月 土山の町並みを愛する会
さみだれに 鳰のうき巣を 見にゆかむ
森鴎外と常明寺説明
芭蕉句碑
禅俳僧虚白住寺跡説明
白川神社・天満宮を合祀
常明寺本堂
本堂に掛かる瑞宝山の扁額
臨済宗東福寺派の寺院。 和銅年間の建立と伝えられ、貞和5(1349)年鈍翁了愚が九条経教の命を受け中興した。 一時兵火により焼失したが、延宝年間(1673-81)に再建された。
当寺の住持であった松堂慧喬(号虚白)(1773~1847)は俳人としても活躍し、地域の俳壇で指導的立場にあった。 境内には芭蕉の句碑 「さみだれに 鳰のうき巣を 見にゆかむ」 がある。
寺蔵の大般若波羅蜜多経は奈良時代のもので、長屋王願経として国宝に指定されている。 また、墓地にはこの地で没した森鴎外の祖父森白仙の供養碑が建てられている。
平成14年3月 土山町教育委員会
迫洗功業碑
水子子安地蔵尊
聖観世音菩薩
禅俳僧虚白住寺跡碑
常明寺解説
常明寺山門
鐘楼