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東海道   (井田川~関


平成29年9月5日(火)    ☁|☀    井田川~関    11.2㎞
昨日の続きで、井田川駅に6時30分に降りたち、駅前の街道からスタートする。本日は、亀山宿から関宿までの短い距離であるが、途中、見るところがたくさんあるので、到着時間はいつもと変わらない16時頃であろうか。

井田川駅 旧井田川小学校跡 旧道口 西信寺
早朝の井田川駅は、人気が無い。
通勤・通学にはまだ早いのか、車通勤などが普通なのかも知れない。
井田川駅を出ると右手のタクティー亀山物流センター前に旧井田川小学校跡がある。
ここには二宮尊徳像と旧門柱があり、門柱には次のように刻まれている。
大正4年3月7日小田町より移転し、昭和54年3月31日まで存続した。 此の石ふみは、その門柱の片方である。
二宮尊徳像の右手には、亀山宿・江戸の道解説がある。
道なりに進むと国道1号線に突き当たるので、川合歩道橋で横断すると、直ぐ先左に折れる旧道がある。
の曲がり角には東海道道標があり、法悦題目塔・町内環境向上事業の取り組みなどの表示がある。
左折して直ぐ右手に、真宗高田派の廻向山西信寺がある。
西信寺の創建年代等は不詳であるが、境内はすっきりとして、やや小ぶりの本堂が建っている。

正福寺 川合椋川橋 亀山バイパス 谷口法悦題目塔
続いて右手二本目の筋を入って行くと、浄土宗の三世山浄業院正福寺がある。
正福寺の創建年代等は不詳であるが、境内には二つの祠があり、何れも弘法大師が祀られている。
街道を進むと、椋川に架かる昭和48年(1973)竣工の川合椋川橋がある。
昔、椋川がしばしば氾濫し、多くの家屋が浸水したため、安永年間(1624-44)頃、亀山藩士生田理左衛門が私財を投げうって水流を南に変え、橋を架け替えたので、理左衛門橋と呼ばれた。
川合椋川橋を渡ると、その先で国道1号線の亀山バイパスの高架を潜って行く。 亀山バイパスを過ぎると、程なく右手に谷口法悦題目塔が建っている。
昔から 「川合のやけ地蔵さん」 「法界塔さん」 と呼ばれており、日蓮宗の篤信者谷口法悦が元禄年間(1695-98)に建てたと言われている。
解説板に記載はないが、ここは江戸時代の川合刑場があったところで、その供養のために建てらえたと言われる。

和田道標 シャングリサン 和田の町並み 井尻道道標
題目塔の直ぐ先で二車線道路の信号交叉点を渡ると、左手に鉄枠で補強された和田道標が建っている。
元禄3年(1690)に建てられた三重県内東海道中最古の道標で 「従是神戸白子若松道」 と刻まれている。
先に進むと左手に、木造の神明系鳥居の奥に小社がある。これは通行人による悪疫から子供を守るために祀られたもので、東海道分間延絵図には 「叉具神」 と記されている。
ここには竿石が途中で折れた石燈籠や道標と思われる石柱などがある。
シャングリサンの先で右にカーブして集落の中を進んで行く。
街道正面に和田町公民館前の前に建つ緊急アナウンス塔が見えている。
和田町公民館の斜向かいの細い路地角に井尻道と刻まれた道標が建っている。
この道標は、これまで各所にあった道標と同じで、田中音吉が建立したものである。

幸福寺 福善寺 和田神社 石上寺
井尻道道標の先に入って行くと、真宗高田派の當修山幸福寺がある。
幸福寺の創建年代等は不詳であるが、境内には福智院斎之碑のほか、墓石がいくつか見られる。
街道に戻ると直ぐ右手に天台真盛宗の多宝山福善寺がある。
福善寺の創建年代等は不詳である。
福善寺から程なく、右手の㈱石河整備の横を流れる小川脇の道を北に進むと左手段上に和田神社がある。
和田神社は、紀伊国那智の神を勧請して熊野社を創建したのが始まりと言われ、その後、盛衰の変遷があったものの現在に至っている。祭神は伊耶邪那美之大神・建速須佐之男・速玉男之大神の三祭神である。
街道に戻ると、右手段上に高野山真言宗の石上寺(せきじょうじ)がある。
石上寺は、延喜15年(796)熊野那智社の夢告をうけた大和国布留郷の住人・紀真龍(きのまたつ)により、新熊野三社が勧請され神宮寺として開創されたという。境内奥には、熊野大権現の扁額の掛かる三社、東海近畿地蔵菩薩霊場の地蔵菩薩半跏像、三重四国88か所霊場、仁王護国般若経石塚などがある。

和田一里塚跡 能褒野神社鳥居 露心庵跡 巡見道
街道に戻って先に進むと、右手に和田の一里塚跡がある。この一里塚は、亀山市内に所在する野村一里塚と共に慶長9年(1604)の幕府の命により亀山城主であった関一政が築造したものである。かつては榎が植えられており、昭和59年の道路拡張までは塚の一部が遺されていた。現在の塚は、北塚を復元したものである。
ここは江戸日本橋から数えて104里目の一里塚跡である。
和田一里塚の先で国道306号線を越えて進むと、右手筋に能褒野神社鳥居が建っている。能褒野神社は、ここから北北東3㎞のところにあり、一帯は前方後円墳で日本武尊が伊勢国能褒野で亡くなったという記録に基づき、明治12年に内務省により 「日本武尊能褒野御墓」 と定められている。 能褒野神社鳥居の直ぐ先に露心庵跡がある。天正12年(1584)神戸正武が亀山城を急襲したが、城を守る関万鉄斎はわずか13騎でこれを撃退した。 この合戦の戦死者を城下東端に2つの塚を築き葬ったという。 関氏一門の露心はその近隣に仏庵を建立し戦死者を供養した。 この仏庵が露心庵で、本来の名称を友松庵というが、建立した露心の名から露心庵と呼ばれていた。 明治に至り廃寺となった。 この庵から西が亀山宿となる。 先に進んだ信号十字路角に東屋のある本町広場があり、傍らに巡見道解説が建っている。
巡見道という呼称は、江戸時代にこの道を巡見使が通ったことによる。 巡見使が最初に派遣されたのは、三代将軍家光の寛永10年(1633)のことで、その後将軍の代替わりごとに、諸国の政情、民情などの査察や 災害などの実情調査を行う目的で実施された。 巡見道は、ここで東海道から分岐して北上し、菰野を経て濃州道と合流した後、伊勢国を通過し中山道とつながる。

浄源寺 連子格子の旧家 江戸口門跡 福泉寺山門
本町広場の脇の細い筋を左(南)に入って行くと、浄土宗の正松山浄源寺がある。
浄源寺の創建年代等は不詳であるが、家康の庇護を受けたと云われ、境内には三つ葉葵の紋の入った水盤、六地蔵尊、牛頭天王社などがある。
街道に戻り信号十字路の先を進むと、連子格子の旧家が左右に建っている。
これらの家には、「きりや跡」 「みかわや跡」 「まつばや跡」 「なべや跡」 「おけや跡」 などの屋号が掛かっている。
道なりに進んで県道566号線に突き当たると、左角に江戸口門跡解説が建っている。
解説によると、江戸口門は延宝元年(1673)亀山城主板倉重常によって築かれ、東西120m、南北70mで、北側と東側に塀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が一基築かれていた。曲輪内は3つに区画され、それぞれが枡形となっていた。 この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計2万人が動員されている。
江戸口門跡を右折して進み、東町信号交差点を過ぎると、右手筋奥に真宗高田派の福泉寺がある。福泉寺は、慈覚大師が創設した天台宗の古刹で、寛正元年(1460)に真宗高田派に改宗したと伝えられる。
あいにく山門が改修工事中で境内に入れないが、この山門は、寛政7年(1795)の築造で、地方有力寺院の建築様式を顕著に示す貴重なものである。

法因寺 旧佐川邸跡 椿屋脇本陣跡 樋口本陣跡
福泉寺に隣接して真宗大谷派の法因寺がある。
法因寺の創建年代等は不詳であるが、境内には蓮如上人御舊跡碑、黒田孝富の墓などがある。黒田孝富は幕末の武士で、京の勤皇派とのつながりが深く、郡代奉行に抜擢され藩政の改革を行った。明治元年(1868)反対派のよって斬殺された。
街道に戻ると道路を挟んだ向かい側に、東町ふれあい広場があり、傍らに旧佐川邸跡碑が建っている。
近くに解説板は無いが、この広場全体が旧佐川邸の跡地であるらしい。
旧佐川邸跡の直ぐ先、 「しぼりや」 の辺りに椿屋脇本陣があったようである。 しぼりやの20m程先に樋口本陣跡がある。
ここには辛うじて分かる立看板が建っている。

亀山城大手門跡 弘法院 高札場跡 亀山城東三之丸跡
直ぐ先の信号十字路角に亀山城大手門跡がある。
大手門は、東海道に直面する亀山城の正門として位置づけられる門である。
街道は信号十字路を左折するが、右折して最初の筋を右折すると、右手に高野山真言宗の宝生山弘法院がある。
弘法院は、昭和7年(1932)の創建で歴史は浅いが、「亀山の弘法さん」 と親しまれ、境内には大日如来を安置した八照閣、十三仏を安置した小堂などがある。
信号十字路に戻ると、亀山城大手門解説の向かいの角に高札場跡がある。
江戸時代のこの場所は、大手門前で東海道が直角に折れて広場となっており、亀山宿の高札場が置かれていた。
ここから江戸まで104里、庄野宿まで2里、関宿まで1里半である。
ここで少し街道を離れて信号十字路を直進し、亀山城址方向に進んでみる。
高札場跡の直ぐ先、右手に亀山城東三之丸跡がある。

家老名川大右ヱ門屋敷跡 石井兄弟亀山敵討遺蹟碑 亀山城址 亀山神社
亀山城東三之丸跡の斜向かいに家老名川大右衛門氏屋敷跡がある。 亀山城址の左手に有る池の手前に石井兄弟亀山敵討遺蹟碑がある。
この碑は、元禄14年(1701)5月9日早朝、石井源蔵・半蔵兄弟が父の敵・赤堀水之助を石坂門外で討ち取った事を記念して、昭和7年(1932)に亀山保勝会によって建立された。
当時 「元禄曽我」 と称され、赤穂浪士の討ち入りと並び賞賛された。
亀山城址の入り口左手に亀山城址碑が建っており、その後ろに亀山城多門櫓が聳えている。
この一帯には、鐸山近藤君碑、飯沼慾斎生誕之地碑、黒田孝富遺剣之碑などの石碑の他、明治天皇行在所の一部を移築した建物などがある。
亀山城址にある亀山神社は、江戸時代中期の延享元年(1744)備中国松山から石川総慶が亀山城に入城した際、城内に小祠を設けて奉斎したのが始まりである。
境内には大久保神官家棟門のほか、稲荷神社・天満宮などの境内社がある。

枡形 遍照寺 亀山宿碑 問屋場跡
街道に戻って高札場跡の角を左折して先に進むと、緩やかな下り坂となったところに枡形道路がある。 微妙に曲がる道を進むと、左手に天台真盛宗の延寿山地蔵院遍照寺がある。
遍照寺の創建年代等は不詳であるが、鐘楼門をくぐると急な坂で、坂の下に本堂があるため「頭で鐘撞く遍照寺」 といわれた。本堂は、旧亀山城二之丸御殿の玄関と式台の一部を移築したものである。
境内には、薬師堂・弘法堂・真盛上人幼少像、佐藤定憲歌碑などがある
街道に戻って緩やかにうねった街道を進み、県道302号線を渡ると坂道の上り口に亀山宿碑が建っている。 坂道を上り切った左手に問屋場跡がある。
東町と西町からなる亀山宿では、代々宿役人であった東町の樋口家(本陣の家)と西町の若林家(家業は米問屋)が、10日あるいは20日程の期間で定期的の交替しながら、宿継ぎの問屋業務を担当していた。

道標 青木門跡 加藤家屋敷跡 飯沼慾斎生家跡
問屋場跡の先を進むと、十字路の左手筋角と右手筋角に道標が建っている。
左の道標には、「右東海道 左停車場 道」 と刻まれ、右の道標には、「右郡役所 左東海道」 と刻まれている。
右の道標が示す郡役所の方向に入って行くと、突当り右手に青木門跡がある。
元和元年(1615)4月16日、徳川家康が大阪へ出陣の時、亀山に宿泊した。城主松平忠明出征中で留守を守る家臣が接待にあたった。翌17日亀山城南三之丸より西町に出る搦手門より出立の時、付近に繁茂した青木を見て 「おお青木」 と称賛したので、この周辺の土地を青木と称した。また、門を 「青木門」 と呼んで家康を敬慕したと伝えられる。
青木門跡から更に奥に進むと亀山藩主石川家家老加藤家屋敷跡があり、加藤家長屋門と土蔵が並んでいる。
一般公開しており、開館日は土曜日・日曜日・祝日で、入場は無料となっている。
街道に戻ると道標の向かいの家の前に飯沼慾斎生家跡がある。
飯沼慾斎(1783-1865)は、西町西村家に生まれ、12歳で美濃大垣に移り、飯沼家を継いだ。 わが国植物学の基礎を拓くなど、近代科学草創期の代表的な自然科学者である。

旧舘屋住宅(枡屋) 善導寺 亀山城西之丸外堀跡 梅厳寺
飯沼慾斎生家跡から50m程先の左手に旧舘住宅(枡屋)が建っている。
枡屋は、幕末から大正にかけて呉服商を営んでおり、現在の主屋は明治6年(1873)に建てられたものである。
木造2階建てのこの建物は、亀山宿を代表する商家建築として、平成19年市指定文化財に指定されており、一般公開されている。
旧舘屋住宅(枡屋)の土蔵脇の筋を入って行くと、浄土宗の終南山光明院善導寺がある。
善導寺の創建年代等は不詳であるが、山門前には伊勢板倉勝澄公寄進の石燈籠があり、境内には地蔵堂・宝篋印塔などがある。
街道に戻って道なりに進んで行くと、突当りに亀山城西之丸外堀跡がある。
この西之丸外堀は、寛永13年(1636)に亀山城主となった本多俊次により、同16年から3ヵ年かけて行われた亀山城修築の際に築かれたという。 江戸時代の絵図には石垣を示す表現はなく、すべて土造りの空堀か水堀であったと推測されている。
西之丸外堀跡を左折して、やや下り坂の街道を進み、先のY字路を右に入ると左手に浄土宗の純一山常壽院梅厳寺がある。
梅厳寺は、亀山藩主石川家菩提寺で、もともと亀山に有った寺ではなく、石川家の転封に伴い石川家成の菩提寺を亀山に移したものである。寺名梅巌は石川家成の院号である。境内には、一光三尊善光寺如来・六地蔵尊・慈母観世音菩薩・四国三十三所観世音菩薩などがある。

京口門跡 京口坂橋 照光寺 森家住宅
街道に戻ると、梅巌寺の南口門のところに京口門跡がある。
京口門は、石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。 また、門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされる。
京口門跡の先で竜川に架かる京口坂橋を渡って行く。
京口坂橋から竜川を見ると、京口坂橋がかなり高い所に架かる橋であることが分かる。
京口坂橋の渡り詰め右手に、日蓮宗の妙亀山照光寺がある。照光寺は、もと玉泉院と称する日蓮宗の寺院である。亀山藩主板倉重冬公の養母照光院は篤く法華経に帰依し、元禄2年(1689)野村京口門下に一宇を再興し、照光院の法号をとり寺号としたという。
境内には元禄13年(1700)の南無妙法蓮華経題目碑、妙見菩薩が祀られた妙見堂があり、墓所には赤堀水之助・山本善太の墓がある。
照光寺から程なく左手に森家住宅がある。
街道に面して間口が広く、入口から順次整った座敷を配置している。また街道に面した外観は出格子戸を設けるなど町家的な表構えを見せている。現在は、伊勢うどんなどの幟を立てた飲食店として使用されている。
建物前には 「左東海道」 と刻まれた道標があり、壁面に解説板が貼られている。

心光寺 光明寺 野村の町並み 慈恩寺
森家住宅の先の左手筋を入ると、右手に浄土宗の心光寺がある。
心光寺の創建年代等は不詳であるが、境内には十一面観音菩薩を祀る観音堂、数体の地蔵菩薩などがある。
街道に戻ると直ぐ右手に浄土真宗本願寺派の究竟山光明寺がある。
光明寺の創建年代等は不詳であるが、街道に面して鐘楼門が建ち、本堂前に親鸞聖人像があるのみですっきりした境内である。
京口坂橋を渡ってからは、連子格子の旧家が建ち並び、往時の町屋の雰囲気を偲ばせている。 西光明寺の先の十字路左手に浄土宗の亀鶴山無量院慈恩寺がある。
慈恩寺は、聖武天皇の勅願により僧行基が開き、忍山神宮の神宮寺として創建されたと伝えられている。往時には七堂伽藍があったが、たび重なる兵火で焼失したという。
境内には、一棟になった地蔵堂・弘法堂・庚申堂・谷汲観音堂、忍山観音堂・薬師堂のほか、墓所には近藤幸殖の墓がある。

道標 明治天皇御召替所跡 忍山神社 野村一里塚跡
慈恩寺を出ると、左手2本目の筋角に忍山神社の道標が建っている。
道標には、「天照皇大神御鎮座跡忍山神社」 と刻まれている。この筋が参道であったようだが、この先は県道565号線で分断されているため、道標の先の信号交差点を左折して迂回する必要がある。
道標の先の信号十字路右角に明治天皇御召替所跡がある。壁面の解説には次のように記されている。
明治13年5月、明治天皇が東京から山梨県を行幸され、続いて三重県で伊勢の内宮と外宮を参拝された。東京へ帰る途中、高田山専修寺や、鈴鹿郡亀山を行幸された。亀山では陸軍の大阪鎮台の様子を見分された。その折、ここ内池家で御休みになり、御茶料として3円を下された。
信号十字路を左折して、平成10年竣工の忍山高架橋を渡ると右手に忍山神社がある。
忍山神社は、醍醐天皇延喜5年(905)勅命により撰修された 延喜式内社である。明治41年には村社能牟良神社など、近隣の20社を合祀している。
境内には、山神社・庚申塔・弁財天などの石造物が並んでいる。
街道に戻って信号十字路の先を進むと、右手に野村の一里塚跡がある。
この塚上には、目通り幹囲5m、高さ20mの椋(ムク)の木がある。
ここは江戸日本橋から数えて105里目の一里塚である。

田圃 大庄屋屋敷跡 善性寺 布気皇舘太神社
野村一里塚跡を過ぎて野尻の集落に入ると、左手眼下に田圃が広がっている。 先に進むと十字路を越えた左手に大庄屋屋敷跡がある。広い空き地の前に標柱が建っており、正面に 「史跡 大庄屋 打田権四郎昌克宅跡(九々五集)」 と記されている。打田家は江戸初期に近江国から野尻村に来て土着し本多家の代官を勤め、その後の城主から庄屋に任ぜられた。権四郎昌克は17代当主で寛永19年(1642)に生まれ、大庄屋在任中亀山藩領86ヶ村を中心にした見聞記 「九々五集」 を記録しした。 大庄屋屋敷跡の先でY字路となり、街道は右に進むが、左に折れて直ぐ左手筋に入ると真宗高田派の帰郷山善性寺がある。
善性寺の創建年代等は不詳であるが、境内には庚申塔・役行者像・地蔵菩薩があり、墓所には大庄屋打田権四郎昌克の墓がある。(墓は確認できなかった)
街道に戻ってY字路を右折していくと、左手に布気皇舘太神社がある。
布気皇舘太神社は、延喜式巻九 「伊勢國鈴鹿郡十九座並小布気神社」 とあり、神話時代垂仁天皇18年の創始にかかる式内社である。
木々に囲まれた長い参道にはたくさんの石燈籠が並び、社殿は森の中に鎮座している。

立場茶屋能古付近 道標 落針観音堂 常夜燈
布気皇舘太神社の斜向かいに立場茶屋能古があったと言われている。この辺りには、現在、神辺簡易郵便局が建っている。
能古茶屋は、松尾芭蕉の親友である禅僧道心坊能古が開いた茶屋と言われている。芭蕉は逗留中に 「枯枝にとまりたるや秋の暮」 という句を残している。
立場茶屋能古付近と言われる神辺簡易郵便局の先を進むと、右手筋角に大正3年(1914)の道標が建っている。
道標には、「右白川道」 と刻まれている。
道標の直ぐ先左手に落針観音堂がある。
観音縁起によれば、通称 「昼寝観音」 と呼ばれ、東大寺再建の折りに造られ、奈良より背負われて各地を巡り、此の地こ伝わったという。また、各地の観音様が集まって西日本で観音様を巡ってお参りする33カ所の寺を決める会議が開かれた時、落針の観音様は昼寝をして会議に行かなかったので、33ヶ所の寺に選ばれなかったという。
落針観音堂脇の坂道を下っていくと、逆Y字路の中央に安政6年(1859)の常夜燈が建っている。

清福寺 迂回路 大岡寺畷 名阪国道高架
逆Y字路を左に折れると右手に真宗高田派の見流山清福寺がある。
清福寺の創建年代等は不詳であるが、山門は鐘楼門で、境内は植栽があり綺麗な庭といった感じである。
街道に戻って進むと、直進の道はその先でJR関西本線で分断されているため、東海道道標に従って跨線橋で渡って行く。
この道標の裏側に安政6年(1859)の常夜燈が建っている。
跨線橋を渡って先に進むと直線の大岡寺畷が続いている。
大岡寺畷は、東海道が約2kmにわたって鈴鹿川沿いに築かれた堤の上を通り、東海道の畷道では随一の長さとされる。 松尾芭蕉の門弟・野径が 「から風の大岡寺縄手吹透し」 と詠んでいる。大岡寺の地名は、かつてこの地にあった大寺である 「六門山四王院太岡寺」 に由来すると伝えられる。
鈴鹿川に架かる昭和28年(1953)竣工の神邉大橋を左に見て進むと、名阪国道と東名阪自動車道の高架が横切っている。
高架下には、歌川広重の東海道五十三次画が描かれている。

大岡寺畷橋 小野川橋 関宿入口 関の小萬のもたれ松
東名阪自動車道高架の下には、桜川に架かる昭和8年(1933)竣工の大岡寺畷橋がある。
大岡寺畷橋を渡ると、左手は鈴鹿川が流れ、右は黄金色の田圃が広がっており、吹きさらしの土手道である。
大岡寺畷を抜けると国道1号線に突き当たり、左に進んで小野川に架かる小野川橋を渡って行く。 国道1号線に入って直ぐ右手に旧道があり、関宿の看板が建っている。
看板の後ろは、小野ポケットパークになっており、鈴鹿山脈案内・関宿総合観光案内図が建っている。
小野ポケットパークの斜向かいに関の小萬のもたれ松がある。
ここには何代目か不明の松と小萬の碑・もたれ松解説があり、当時亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿を隠してもたれたと伝えられる松があったところから 「小萬のもたれ松」 と呼ばれるようになったという。

関の一里塚跡 関宿木崎の町並み 宝林寺 弘善寺
先に進んで行くと変則十字路の左角に関の一里塚跡がある。
ここ東の追分は、伊勢別街道の分岐点で鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際に古い鳥居を移築したもので、脇には元文5年(1740)の常夜燈が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて106里目の一里塚跡である。
一里塚跡の先から鈴鹿峠に向かって、江戸時代から明治時代にかけて建てられた古い町家が200軒ほど約2kmにわたって続いている。 街道右手奥に真宗高田派の法流山宝林寺がある。
宝林寺の創建年代等は不詳であるが、
境内には釣瓶井戸、地蔵堂、日露戦役旅順閉塞紀念石塔などがある。
先に進むと右手筋角に 「不動尊弘善寺」 の道標があり、細い路地を進むと曹洞宗の無量寿山弘善寺がある。
弘善寺の創建年代等は不詳であるが、境内には延享2年(1745)の供養塔、宝篋印塔、地蔵菩薩などの石造物がある。

浅原家 御馳走場跡 関神社 百五銀行
街道に戻ると左手に浅原家がある。
浅原家は屋号を江戸屋と称し、米屋材木屋などを営む。家の正面は塗籠の中二階、連子格子の明治以降についた店棚、馬つなぎの環などがあり、江戸期の面影を最もよく残す建物といえる。障子の下張りに万延の文字があったことから、それ以前の建築年代と推察される。
浅原家の直ぐ右手に御馳走場跡がある。
ここは関宿に出入りする大名行列の一行を、宿役人が出迎えたり、見送ったりした場所で、享保19年(1734)に造られた。
関宿には4カ所の御馳走場があった。
御馳走場跡の筋を北に入って行くと突当りに関神社がある。
昔、関氏の祖・実忠が紀伊国熊野坐神社勧請したものと伝えられ、境内のナギの木は、それに縁があるものと言われる。江戸時代には、熊野三所大権現と呼ばれ、その後、周辺の神社を合祀し、明治42年9月に関神社と改称された。
街道に戻ると右手に百五銀行がある。
百五銀行は、町並みに配慮した意匠の建物で、平成9年度の三重県さわやかまちづくり賞(景観づくり部門)を受賞している。
百五銀行の先の十字路を左折すると、JR関西本線の関駅がある。

延命寺 関宿中町の町並み 瑞光寺 関まちなみ資料館
百五銀行の先の十字路を右折すると、突当りに浄土真宗西本願寺派の清静山延命寺がある。
延命寺の創建年代等は不詳であるが、山門は明治5年(1872)に中町三番町にあった川北本陣から移築されたものである。一間一戸の医薬門で、17世紀後期の建物である。
街道に戻ると関宿中町の町並みが続き、かつてこの中町に本陣や脇本陣があった。 延命寺を出た十字路から右手一本目の細い路地の入口に、民家の壁に貼られた小さな瑞光寺の木札がある。この先に入って行くと突当りに曹洞宗の河上山瑞光寺がある。
瑞光寺は、応安4年(1371)の創建と云われ、兵火により焼失したのち、永禄~天正年中(1558-1591)に亀山城主関安芸守盛信が菩提寺として再興したという。境内には、徳川家康が京への途中、瑞光寺の庭先の柿を賞味したという 「権現柿」 がある。
瑞光寺を出ると、直ぐ左手に関まちなみ資料館がある。
この資料館は、江戸時代末期に建てられた関宿を代表する町屋建築のひとつであり、亀山市関町の文化財・歴史資料の展示するほか、関宿の町並みの移り変わりを写真展示している。

鶴屋脇本陣跡 問屋場跡・山車庫 川北本陣跡 百六里庭
関宿まちなみ資料館の斜向かいに鶴屋脇本陣跡がある。
鶴屋は、西尾吉兵衛を名乗っていたので、西尾脇本陣とも呼ばれていた。二階壁面に千鳥破風を乗せた派手な意匠である。
鶴屋脇本陣跡の隣に問屋場跡があり、山車庫が建っている。
「関の山」 の言葉の語源にもなった関宿の山車は、最盛期には16基あった。互いに華美を競い、狭い関宿を練ったことから生まれた言葉である。現在は4基の山車が4箇所に残っている。
山車庫の隣に川北本陣跡がある。
現在は、川北本陣跡碑が建っているのみであるが、本陣門は延命寺に移築されている。
川北本陣跡の斜向かいに百六里庭・眺関亭がある。
ここは関宿の町並みの中にある小公園で、中には東屋が設けられ、休憩場所としては絶好の場所である。通りに面した眺関亭からは、関宿の家並みが俯瞰できる。

伊藤本陣跡 橋爪家 高札場跡 福蔵寺
百六里庭の隣に伊藤本陣跡がある。
伊藤本陣は、関宿にあった二軒の本陣のうちの一つであり、間口11間余、建坪69坪、西隣の表門は唐破風造りの檜皮葺きであった。
現在残っている街道に面した部分は、家族の居間と大名宿泊時に道具置場に供する建物である。
伊藤本陣跡の斜向かいに橋爪家がある。
橋爪家は、代々橋爪市郎兵衛を名乗り、寛文(1661-72)の頃から両替商を営み、江戸にも出店を持ち、大阪の鴻池家と並ぶ豪商であった。江戸末期には芸妓の置屋として栄えた。街道に面して手摺付きの二階妻入り建てであるが、これは明治期の改造で、もとは平入の屋根であった。
街道右手の関郵便局前に、復元された高札場跡がある。
関宿高札場は、この御茶屋御殿の街道に面した場所にあり、街道に面した間口11間余のほぼ中央に、枡形状の土塀に囲まれてあり、高札場の建設、高札の付け替えなどは亀山藩が行っていた。関郵便局の敷地は、天正20年(1592)徳川家康が休息したので、御茶屋御殿屋敷と呼ばれ、陣屋・役人の詰所などに使用された。
高札場跡の先右手に、天台真盛宗の清浄山福蔵寺がある。
福蔵寺は、天正11年(1583)織田信長の三男・信孝の菩提寺として創建された。
境内には馬頭観音・不動明王・元三大師を祀る観音堂、薬師如来を祀る薬師堂があり、裏門横には仇討烈女・関の小萬の墓がある。

地蔵院 会津屋 誓正寺 観音院
福蔵寺の直ぐ先、三叉路に真言宗御室派の九関山宝蔵寺地蔵院がある。
地蔵院は、天平13年(741)行基菩薩の開創と伝えられ、「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」 の俗謡で名高い。
境内の本堂・鐘楼・愛染堂の三棟は国の重要文化財(建造物)に指定されている。
地蔵院の向かいに会津屋がある。
会津屋は、関宿を代表する旅籠の一つであり、もとは山田屋と称し、小萬が育ったことで知られている。
会津屋の先は新所と呼ばれる町並みで、江戸時代の特産物として火縄があり、新所を中心に数十軒の火縄屋があったという。
先に進むと、程なく右手に真宗高田派の誓正寺がある。
誓正寺の創建年代等は不詳であるが、境内には、天保9年(1838)に住職となった法瑞の教えを受けた人々によって建立された 「筆子塚」 の石燈籠がある。
新所の家並みを見ながら進むと、右手に天台真盛宗の関西山観音院がある。
観音院は、古くは福聚寺といい、嵯峨天皇の御代(820)に開創したと言われ、土地の豪族関氏の祈願所として栄えた。その後、江戸時代に入り寛文5年(1665)この地にお堂を建立し関西山観音院と称した。
境内には大峯山址碑・西国三十三所観音山公園道道標・宝篋印塔などがある。

関神社御旅所 西の追分
先に進むと右手に関神社御旅所がある。
御旅所にしては立派な社殿が建っており、境内には文化14年(1817)の御旅所と刻まれた手水石がある。
関神社御旅所の直ぐ先が関宿の西の追分で、左手には休憩施設が設けられている。
休憩施設には、鈴鹿関跡の調査結果がパネル展示してある。
この先で国道1号線に合流するが、その手前には西の追分解説、元禄4年(1691)の法悦題目塔道標などが建っている。
今回はここで終了し、JR関駅まで戻って上京する。

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