天文11年(1542)9月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守および飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。 当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。 こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛りかえし、さらに北伊勢の軍勢を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。
 このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍勢5千を率いさせ、山中城に援軍を送った。 一方北畠軍も兵1万2千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。 この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠軍の甲賀への侵入を阻止することができた。
  平成7年3月 土山町教育委員会

蟹坂古戦場跡解説

蟹坂地区圃場整備竣功記念碑

蟹坂古戦場跡碑