歌川広重は、多くの道中図や名所図を描いているが、天保4年(1833)に刊行された 「東海道五拾三次」 (保永堂版)は、その中の代表作といえる。 作品には、季節感や自然現象、旅人の姿や各地の名物などが随所に織り込まれ、叙情豊かな作風を生み出している。 土山を描いた 「春の雨」 は、雨の中、橋を渡る大名行列の姿を描いたもので、田村川板橋を渡り、田村神社の杜のなかを宿場に向かっている風景であると言われている。
  土山宿は東海道49番目の宿で、東の田村川板橋から西の松尾川(野洲川)まで、22町55間(約2.5km)に細長く連なっていた。 東の起点である田村川板橋は、安永4年(1775)に架けられたもので、このとき東海道の路線が変更され、田村神社の参道を通るようになったと言われている。

歌川広重画解説

井上士朗句碑解説

井上士朗句碑

田村川板橋を描いている

 江戸、中、後期の俳人。 初号支朗、別号枇杷園、朱樹叟。尾張(愛知県)守山の人。名古屋新町の町医井上家の養子となり3代目を継ぐ。
  俳諧を加藤暁台、国学を本居宣長、絵画を勝野范古、平曲を萩野検校に学び、医者としても城下一の評判があった。 俳諧では 「尾張名古屋は士朗(城)で持つ」 と俗謡にうたわれ、夏目成美、鈴木道彦と共に、寛政三大家の一人として重んじられた。 編著は枇杷園句集(1804)、枇杷園句集五集(1808)、枇杷園随集(1810)、枇杷園七部集(1~5編)に収められる。
 土山の町並みを愛する会 甲賀市教育委員会

鮎の背に 朝日さすなり 田村川

国道1号線が見えている

田村川下流域

歌川広重画 「東海道五十三次之内土山春之雨」

田村川上流域