稲荷社

地蔵菩薩

地蔵堂

御影堂説明

 後水尾法皇(1596-1680)は地安寺を開山した龍渓和尚に深く帰依され、その関りから崩御の後、皇女の照山元遥尼(1634-1727・出家前の名は朱宮光子内親王)から法皇の木像と位牌が地安寺に下附された。また地安寺には特に金毛院という院号が授けられ、法皇の三回忌には尼直筆の観音経が納められた。
 法皇は京都の修学院離宮を造営され、その隣には光子内親王の山荘が建てられていたが、法皇崩御の後に林丘寺という尼寺に改められ、内親王は出家された。林丘寺は尼門跡寺院として後には音羽御所とも呼ばれた。またその寺名から照山元遥尼は林丘寺宮とも呼ばれ、和歌と画に長けた方であった。
 法皇の木像が納められている御影堂が境内に建てられた頃、この鐘楼門前の参道両脇には林丘寺宮が茶の木を植栽され、毎年1月、5月、10月にはここで収穫された茶葉が鈴渓茶・仁泉茶の銘で林丘寺に献納されていた。この茶畑は昭和の初めまで栽培されていたが、現在ではここにある一樹のみが記念として残されている。
 平成28年1月 土山の町並みを愛する会 甲賀市教育委員会

 前野の地安寺には、後水尾法皇の御影御位牌が安置されている。後水尾法皇は慶長元年(1596)、後陽成天皇の第三皇子として生まれ、慶長16年、16歳の若さで即位された。徳川幕府が成立していく中で、天皇になられたが、寛永6年(1629)、明正天皇に皇位を譲られ、34歳で上皇になられた。
 翌年、御生母中和門院が56歳で崩ぜられ、この頃から法皇と禅僧のかかわりあいは一層深くなられた。特に地安寺開山の龍渓禅師への帰依は深く、宇治黄檗開山にあたっては、龍渓和尚を通じ、地位も名誉も放棄して大事業に邁進された。遂には龍渓和尚の禅法をつがれたが、延宝8年、85歳の高齢で逝去された。
 元禄11年(1698)、普明院(法皇の第一皇女)の意向により、法皇の像、位牌を下附され、その安置所として宝永5年(1708)、地安寺境内に建立された。
 平成4年3月 土山町教育委員会

鐘楼門の山門

山門に掛かる福慧山の扁額

御影堂

地安寺と後水尾法皇・林丘寺宮説明

本堂に掛かる金毛院の扁額

本堂に掛かる福慧山の扁額

地安寺本堂

手水舎