ここは中山道槙ヶ根追分である。
 東へ七本松坂や西行坂を下って中野村を過ぎ、阿木川を渡れば大井宿であり(この間約1里)、西へ約2里半(約10㎞)深萱立場や炭焼場の十三峠を越せば大湫宿である。 ここで中山道に分かれて西に下る道は、竹折や釜戸を経て内津峠を越せば名古屋や伊勢方面に行くことができ 「下街道」 と呼んでいた。 江戸時代ここは中山道の通行者に加えて、木曽や尾張方面の商人荷、それに善光寺や伊勢神宮等の参拝者が行き交い、付近一帯に道を挟んで多くの茶屋があり、巻が根茶屋とか槙が根立場と呼んでいた。
 享和2年(1802)3月この地を通った太田南畝は、著書 「木曽の麻衣」 にこのあたりの様子を次のように書いている。
 「石ばしる音すさまじき流にあり、わたせる橋をみだれ橋という。みたらしの坂というを上る事56町にして、山のいただきより見れば、左右の山ひきく見ゆ。ややくだりゆきて右の方に石の灯籠ふたつたてり。いせ道と石にゑれり。ここに仮屋して伊勢大神宮に奉納の札をたつ。道のへに一重桜さかりなるは遅桜なるべし。一里塚をへて人家あり。巻かね村という。追分立場というは木曽といせ路の追分なるべし。ここにもお六櫛をひきてひさぐ。なおも山路をゆきゆきて又一里塚あり。はじめの道にくらぶればいと近し。松の間をゆきて67町も下る坂を西行坂という。左の山の上に桜の木ありて西行の塚ありという。円位上人は讃岐の善通寺に終わりをとりぬときくに、ここにしも塚あることいかがならん。折から谷の鶯の声をきくもめづらしく、頃は弥生の末なるに遺覧在野という事も引いでつべし。砂石まじりに流るる水にかけし板橋を渡りて中野村あり・・・」 と。
 中山道の整備は初め慶長7年(1602)、徳川幕府役人大久保石見守を総奉行としてなされた。 その時の道はこの槙ヶ根追分から西に下り、竹折-釜戸を経て御岳宿へ出た。ところがその翌年ここから西へ真っ直に行く道が改修され、慶長9年(1604)十三峠を越す道が完成し、大湫宿が設置された(細久手宿の設置は慶長11年である)。 その後一里塚を築き塚の上には榎や松を植え、街道の両側に松などの並木を植えて完備した。 その後この地の藩主や村々の農民の手による補修により、江戸と京都を結ぶ幹線道路として、その機能を果たしていた。
 (恵那市教育委員会)

槙ヶ根立場説明

 京都から江戸へ旅をした秋里離島は、その様子を文化2年(1805)に 「木曽名所図会」 という本に書いた。
 そしてその挿絵に槙ヶ根追分を描き、追分灯籠の横に注連縄を張った小社を書いている。
 ここにある礎石は、絵にある小社遺構であろう。
 伊勢神宮参拝の人は、ここで中山道と分かれて下街道を西へ行ったが、伊勢までの旅費や時間のない人は、ここで手を合わせ遥拝したという。

伊勢神宮遥拝所説明

 江戸時代の末頃、ここには槙本屋・水戸屋・東国屋・松本屋・中野屋・伊勢屋などの屋号を持つ茶屋が9戸あった。
 そして店先に草鞋を掛け、餅を並べ、多くの人が一休みして、また旅立って行ったと思われる(旅人の宿泊は宿場の旅籠屋を利用し、茶屋の宿泊は禁止されていた)。
 これらの茶屋は、明治の初め宿駅制度が
変わり、脇道ができ、特に明治35年(1902)大井駅が開設され、やがて中央線の全線が開通して、中山道を利用する人が少なくなるにつれて、山麓の町や村へ移転した。
 そして今ではこの地には茶屋の跡や古井戸や墓地などを残すのみとなった。

槙ヶ根立場の茶屋説明

炊事場跡

立場跡の解説

古井戸が残されている

かまど跡

休憩中に見た青い鳥 (中央)

境界石

解説に挟まれてベンチがあったので昼食を採った