盆地の底の平坦地にある大井の町場は、周囲の山間農村を結ぶ道路の結節点として、人や物が行き交う交通上の要衝となっていた。江ぢ時代には、中山道の宿駅(大井宿)としての役割を担ったことから、旅籠屋や商家が増えて発展し、天保14年(1834)には、宿内戸数110軒、旅籠屋は41軒、人口は466人であった。大井宿の町並みは、大井橋の東の袂から上宿の高札場までの6町半(約709m)で、西から橋場・茶屋町(中嶋町)・竪町・本町・横町に分かれ、道はそれぞれの町のはずれでほぼ直角に折れ曲がり、整然とした町割りを形成していた。
 これに対して、江戸時代の恵那駅前一帯は田畑、原野だったが、明治になると、中山道をはさんで家が建ち始め、明治28年(1895)に大井町新町となった。明治35年(1902)に中央線大井駅が開業すると、大井町がこの地域の物資の集散地となり、駅と国道中山道の間が幅6間(約10.9m)の道路で結ばれ、両側には街路樹として柳が植えられた。その後、各町村へ通じる街道が整備され、町の基本形態が出来上がっていった。
 駅前からは、正家、東野から岩村、明知方面への南北街道が整備されるとともに、明治39年(1934)には大井~明知間に国鉄明知線が開通した。大井駅がこの地域の人や物資の乗降場となるに従って、駅前通りには多くの旅館や運送店が開業し、一帯には駅前に集まる人々を対象にした様々な店舗が軒を並べ、商業地として発展していった。
 (恵那市教育委員会)

中山道大井宿と駅前の近代化説明

大正から続く和菓子の菊水堂

懐かしさを感じる大きな看板

大正時代の駅前通り

駅前の運送店