江戸時代初期の茄子川村は、御三家筆頭の尾張徳川家・その給人の山村氏(木曽方)・千村氏(久々利方)・それに旗本馬場氏ら8名の入相支配地であり、村高1368石余は、この付近でも大きな村の一つであった。
中山道は村内を東西に縦貫し、中町通りの西はずれにある常夜燈は、安永5年(1776)に建てられ、「是よりあきはみち」 と刻まれている。この常夜燈が、遠州秋葉道との分岐点となっていた。
ここから、中津川宿まで1里23町11間(約6.4㎞)、大井宿までは1里(約4㎞)の距離であった。両宿間2里半6町(約10.5㎞)、中津川・落合両宿間1里弱と比べると、長丁場のため、ここに茄子川御小休所(篠原家)が置かれ、大名・姫宮通行などの休息所の役割を果たした。
(中津川市教育委員会)
茄子川焼は天正6年(1578)の頃、瀬戸の加藤吉右衛門が諏訪の前窯場に来て、施釉陶器を焼いたのがはじめと云われています。
天保3年(1832)広久手の丹波九右衛門が先年より始めた陶器作りの改良を図り、土岐郡妻木村の加藤喜兵衛を師匠に迎えて磁器製造を起こしました。同8年篠原利平治が同じ広久手で陶器作りをはじめ、同14年には諏訪の前で安田新吉が土地の人々に呼びかけて、磁器製造を興しました。
茄子川焼が発展したのは弘化2年(1845)篠原利平治が越中(富山県)から来た水野粂造と共同で5室の連房式登り窯を築いてからであります。人気があったのは陶土になまこ釉をかけて焼成した、独特の優雅な味をつくり出した奥州の相馬焼に似た
「茄子川相馬」 でありました。
明治に入って窯株制度が廃止になると、鯉ヶ平の藤井久左衛門が鈴木栄八と共同で、九谷の職人を呼び寄せて、茄子川焼では珍しい九谷風の茶器などを焼きました。
販路は木曽、伊那、松本方面が多く、中山道を旅する人々には峠の茶屋や窯元でも売っていて、村の重要産業として明治末期まで続きました。
(坂本地区文化遺産保存会)
「是より大井」 と刻まれた中山道碑
中山道碑と茄子川焼説明
下り坂右手にある地蔵尊
茄子川説明