高札は制札ともいい徳川幕府が、農民や商人を取り締まる基本的なきまりを公示したものである。
高札場は村のうち人通りの多い目につきやすい場所に建て、幕府の権威を誇るように石垣や土盛りを築き、ときには矢来で組むこともあった。そして管理の責任を藩に命じ、村人にきまりを厳しく守らせ、付近の掃除や手入れもさせた。
高札の書き換えは、きまりの改正や老中の交替、年号の変わるたびに行われたが、あまり頻繁であったため、8代将軍吉宗以後は書き換えず、正徳元年(1711)5月付の高札が幕末まで維持された。
そして慶応4年(1868)明治維新政府は新しい高札に掛け替えたが、明治3年に高札制度を廃止した。
大井宿の高札場はこの坂の上にあり、高さ2間(3.6m)、幅2間半(4.5m)の大形のものであった。
(恵那市教育委員会)
馬頭観音
高札場説明と中山道五妙坂碑
復元された高札場