子持松跡標柱
姫御殿説明
ここを祝峠といい、周囲の展望がよいので、中山道を通る旅人にとってはかっこうの休憩地だった。この近くに松の大木があり、松かさ(松の子)が多くつき、子持松といった。この子持松の枝越しに馬籠(孫目)が見えるため、子と孫が続いて縁起がよい場所といわれていた。そのため、お姫様の通行のときなど、ここに仮御殿を建てて休憩されることが多かった。
文化元年(1804)12代将軍家慶のもとへ下向した楽宮(さざのみや)のご通行のときは、6畳と8畳2間の仮御殿を建てた。文久元年(1861)14代将軍家茂のもとへ下向した和宮のご一行は、岩村藩の御用蔵から運んだ桧の無節の柱や板と白綾の畳を敷いた御殿を建てて御休みになった。
地元の人たちは、この御殿は漆塗りであったと言い伝え、ここを姫御殿と呼んでいる。
子持松の枝越しに馬籠(孫目)が見えたため、子と孫が続いて縁起の良い場所と言われた
子持松
子持松
下座切場跡
一帯は休憩用テーブルなどが整備されている
下座切場は通行する偉い役人に対し、地元の役人が袴を着用し土下座して迎えた場所
和宮の御殿は漆塗りであったといい伝え、地元の人は姫御殿と呼んでいる
姫御殿跡碑
祝峠標柱
街道から右段上に向かう祝坂