西行の わらじもかかれ 松の露

芭蕉句碑

 西行苑は、平安時代末の高名な歌人西行(法名円位、俗名佐藤義清1118-1190)を偲んで整備された公園で、ここには西行が葬られたという岐阜県指定史跡西行塚(五輪塔が立つ)や、西行の歌碑、芭蕉の句碑が並んでいます。
 定説では、諸国を行脚した西行は、晩年になって河内国(大阪府)弘川寺に身を寄せ、文治6年(1190)2月16日に亡くなったといわれています。
 しかし、全国には様々な形で西行の伝説が残されており、その終焉の地にしても10を下らない数の場所が知られています。この恵那市においても古くから西行の伝説がいくつか知られています。その伝説の一つによれば、西行は、諸国行脚の途中、この地に立ち寄り、竹林庵を結び、3年暮らしたという。西行は、そこで自分の死期を悟り、自分が死んだらその遺骸をこの中野坂に埋葬するよう村人に頼んだ。そして建久9年(1198)2月14日に亡くなり、村人たちは遺言通りに中野坂の傍らに西行を埋葬し、五輪塔を建てたという。
 事実はともあれ、富裕な北面の武士(院を警護する武士)で妻子もあった西行が、すべてを投げ捨て、僧となって諸国を行脚し、数々の歌を詠んだ(新古今和歌集に94首が入る随一の歌人であった)。こうした西行の人となりが、多くの共感を呼んだり、あるいはある種の憧れに似た気持ちを生み、それが各地に残る伝説となったのではないでしょうか。

西行苑説明

 恵那市の市街地を一望できる小高い丘の上に築かれたこの塚は、歌聖西行法師の供養のために造られたと言われています。小さな塚の上には、高さ約1.4mの五輪塔が建っており、形式的には、室町時代末期のものと推定されます。
 西行がこの地で入寂したという伝説は古くからあり、慶長19年(1614)に書写された当市大井町の長国寺に伝わる 「長国寺縁起」 に終焉の様子が細かく記されています。
 西行塚は、太田南畝(蜀山人)の旅行記 「壬戌紀行」(1802) や秋里籬島(りとう)の 「木曽路名所図会」(1805) など、江戸時代の出版物に登場し、古くから中山道の名所の一つとして有名で、今も大切に祀られています。
 (恵那市教育委員会)

待たれつる 入相のかねの 音す也 あすもやあらば きかむとす覧

朴の葉にさよりを包みさげて帰る 恵那山白き日のくれの街

西行歌碑

町野浦二良歌碑

右西行法師塚

東屋から望む恵那山

西行塚

西行塚の小丘に建つ東屋

西国四国巡礼供養塔

西行塚の五輪塔

西行塚説明