ここ中山道大井宿は、古くから良泉の湧く井戸がたくさんありました。地中深くから良質な玉石を積み上げて掘られたこの井戸もその一つで、本陣林家が常用した井戸でした。
 文久元年(1861)10月、皇女和宮様の御東下の折にはこの井戸水を汲んで供したという話が残されています。御昼食の御小休憩にここ本陣にお立ち寄りになられた和宮様は生まれて初めての長旅でたいそうお疲れのご様子、ご同行の水見役の山城守は、庭の木陰の脇から湧くこの井戸水を検水されて、「良水これに勝る水なし」 とたいそうお褒めになり、幾杯も汲み上げてお泊りの中津川宿までお運びになられました。 (大井宿本陣18代当主林茂樹氏の話より)
 幕末の悲劇と言われた和宮様の御降嫁を後世に伝えるかのようにこの井戸は今も枯れることも、濁ることもなく、水はこんこんと湧いています。

 この辺りの小字は 「内城」 といい、大井小学校がある丘の上には、中世から戦国時代に豪族の居館があり、江戸時代後期から明治時代には芝居小屋が建っていました。
 また、城ヶ丘保育園の所は山伏の修験道場と神子母神社があり、その後、小学校、町役場が置かれたこともありました。内城稲荷の社殿の前に、ゆうに50㎏ほどはあろうかという、中央が少しへこんだ石が祀ってあります。この石は、剛勇無双の武将吉村源斎が伊勢参りに行った際、たばこの根付けに手頃だということで、五十鈴川で拾って持ってきたものだと言われています。
 吉村源斎は、「武並神社縁起」 に登場する中津川の千旦林城主吉村七郎左衛門源斎とされ、武田信玄の軍勢と戦うときに立てこもった源斎岩といわれる岩屋が、千旦林の木曽川のほとり、恵那峡の深淵を見下ろす切り立った崖の上に残っています。

内城稲荷と源斎の根付け石

和宮泉(かずのみやせん)説明

内城稲荷社の脇に和宮泉がある

内城稲荷社本殿

大井宿本陣跡の塀の奥に内城稲荷社があり、案内板が建っている。

内城稲荷社