中野村庄屋の家で、屋号を本酒屋といいました。文久元年(1861)、皇女和宮が降嫁し、中山道を通って江戸へ下ることになりました。その準備に中山道の各宿場はおおわらわでした。
 当時、大湫宿の助郷村であった野井村が、和宮が通行するということで岩村藩代官より強制的に賄役(まかないやく)に就かせられました。このことを不満に感じた野井村百姓代熊崎新三郎は、和宮の通行が終わったあと、中野村庄屋宅に滞在していた岩村藩代官吉田泰蔵に斬りつけました。
 これは後に事件となりましたが、代官による強制的な賦役の負担が野井村の今後の慣例となることを恐れた野井村は、岩村藩相手に裁判に訴えました。最終的には野井村の勝訴となり代官は罷免され、野井村に金25両が下付されました。

 田違川は、長島橋の近くで永田川に直角に流れ込んでいた。そのため洪水のたびに田違川は永田川を堰き止め、水は道路に溢れて本通りへも流れて付近の人家に浸水した。そこで、道の両側に石柱を立て、板をはめて浸水を防ぐことにした。
 長島町はこの水害防止のため、昭和10年(1935)、田違川を中央線沿いに付け替えた。
 (恵那市教育委員会)

中野村庄屋の家(本酒屋)説明

浸水防止壁説明

中野村庄屋表門