一里塚は、一里(約4㎞)ごとに街道の両側に土を盛り、その上に榎を植えて旅人たちに里程を知らせた塚である。戦国時代の末(16世紀後半)には、山陽道の備中の河辺から北九州肥前名護屋の間に築かれていたといわれるが、一般的には、慶長9年(1604)、徳川幕府が江戸日本橋を起点として、東海道や中山道などの主要な街道に設けさせ制度化させたものをいっている。しかし、180~190年後の天明年間(1780年代)の頃には、姿を消したものがかなりあったという記録が残っている。
 県内の中山道には、全部で32ヶ所あったが、現在はそのほとんどが取り壊され、現存しているのは、当市内のこの槙ヶ根一里塚と紅坂一里塚のほかに瑞浪市内の権現山一里塚など5ヶ所の合わせて7ヶ所にすぎない。また、全国的にも現存する数はきわめて少なく、一里塚は江戸時代の街道の面影を今に残す貴重な文化財である。
 この槙ヶ根一里塚は、北の塚が高さ約3.5m、幅は9.9m、南塚は北塚より少し大きく高さは3.9m、幅は10.1mある。塚の頂上に植えられていたといわれる榎は両塚とも残っていない。
 近年の土地開発が進む中で、この付近の中山道は開発から免れており、この槙ヶ根一里塚のほかに西行塚や西行坂なども原形をとどめ往時の中山道を偲ぶことができる。
 (恵那市教育委員会)

槙ヶ根一里塚説明

南塚の先に中央自動車道が見える

北塚

槙ヶ根一里塚碑
(街道の先に東屋が見えている)

南塚