安藤広重の大井宿が石板に刻まれている

甚平坂説明

甚平坂道標

甚平坂

庚申塔から100m程にある中山道道標

←中山道大井宿1.2㎞ ・ 中山道中津川宿9.2㎞→

橋本鶏二の句碑

←岡瀬沢・濁川200m ・ 甚平坂関戸一里塚100m→

 「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道は・・・」(夜明け前)
 中山道も木曽路を過ぎて馬籠宿から中津川宿・大井宿に来ると、小高い丘をいくつも横切って進む道となり、起伏は多いが空が広く展望のよい道となり、恵那山や御嶽山を見続けて歩くことのできる道となる。そのため昔の旅人はこの道を 「尾根の道・眺めよし」 といっている。
 ところがこの甚平坂は距離は短いが急な坂道で、長い間旅人には嫌われていたが、明治になってようやく少しなだらかな坂道となった。
 明治13年6月、明治天皇が伊勢方面の視察のために中山道をお通りになることになった。そこでこの地の人たちは総出でこの坂の頂上を2mほど掘り下げて坂の傾斜を少しなだらかにした。それによって天皇のアラビア馬2頭立ての馬車も無事に坂を越すことができた。

 甚平坂は根津甚平是行(禰津次郎惟之)に由来する名称である。
 根津甚平は鎌倉時代源頼朝の家臣で信濃国根津の郷の城主であった。その頃大井に長興寺という寺があり、一体の観音仏を祀っていた。この観音様は昔、聖徳太子が百済の香木に彫ったものといい、太子は法隆寺の夢殿に安置して祀っていたが、或る日突然空に舞い上がり、東方に飛び、大井の里へ来た。里人はこれを寺に移したが、「総ての願いに御利益があるが、特に子供に恵まれない人が祈ると、直ぐに子宝が授かる」 と評判になり、人々はこの観音を 「妊観音」 といった。
 根津甚平は数々の忠功があったが、40歳になっても子供がなかった。ある日この話を聞いた甚平は、さっそく妻と共に大井の長興寺へやって来て妊観音に七夜の祈りを続けた。そして観音の霊光を得て長子根津小次郎惟清を授かることができた。
 喜んだ甚平は、長興寺の和尚と相談して、「昔行基が創建したという長谷教寺を再興する」 こととし、寺の名を稲荷山長国寺とした。そして甚平の守り本尊の運慶作の地蔵菩薩と夫人の聖観音等を寄進したという。
 今長国寺には、根津甚平の 「長国寺殿根津是行居士」 の位牌と乗馬に使用した馬の鞍と鐙が残っている。(長国寺縁起による) 

初蛙 広重の絵の 峠かな