平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附がありました。
 本来、見附は城下に入る門を示す 「城門」 のことをいい、城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持ちました。したがって、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防衛施設として設置されたことが伺えます。また、見附は必ずしも宿境(宿境は傍示杭で示す)を意味するものではなく、見附から正式に宿内であることを示す施設でした。さらに、宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました。
 平塚宿の見附は二ヶ所。一般に江戸側の出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼びました。この二ヶ所の見附の間が平塚宿内で、町並みな東西に14町6間(約1.5㎞)、東から十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町の5町で構成され、その中に本陣、脇本陣、東・西の問屋場二ヶ所、高札場、旅籠などがあり、江戸時代を通して200軒を超える町並みが続きました。
 一般的に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が組まれていました。
 平塚宿江戸見附は、長さ約3.6m、幅約1.5m、高さ約1.6mの石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、東海道に対して直角に対をなし、両側の見附は東西に少しずれた形で設置されていました。
 

明治14年頃の平塚宿の江戸見附

平塚宿の江戸見附跡説明