神明神社は法光院(廃寺)持ちで、古来紅葉山の神明台(現在の北の方)に祀られていたが、江戸時代中期享保年間(1716-35)に神明台から神明森(ふれあい会館付近)に一時遷座され、更に現在地に遷座された。神明町の地名発祥となり、神明町の氏神として信仰が厚い。
例祭は正月、5月、9月の21日で、元は神楽も奉納していた。現在の社殿は神明造で、昭和5年5月総工費2161円(現在の約1億円)で再建。
境内には明治元年(1868)9月20日、明治天皇は初めて京都を出発、東京に行幸途中、10月9日小田原宿を発ち、昼には大磯宿の小島本陣へお着きになりました。昼食後、時間もあり江戸も近くなりましたので、天皇の長い旅路をお慰めしようと、北浜海岸(海水浴場)で、沖の岩の上に群がっているカラスに向かって一斉射撃をさせましたが、一瞬呼吸が合わず全部逃げ去られてしまいました。初めての事なのでとてもお喜びになられました。その後、角打(大砲)がはじめられ轟音を轟かせました。そのころ、漁師が地引網を入れ、角打が終わった時、地引網を引き揚げ始めましたが、網が海底の岩に引っ掛ったので、漁師がわれも、われもと飛び込んで引き揚げました。この網に入った魚をたらいに泳がせ、掛け声勇ましく裸のまま天皇の御前に抱えて来ました。前代未聞のことなので、一同びっくりしましたが、天皇は人々の有のままの姿をご覧になりたいと思っていたので、非常にお喜びになられました。
この日、天皇は小島本陣に御宿泊になり、内侍所御羽車(賢所・天照大神の御霊代の八咫鏡を祀ってある腰輿)は神明神社に奉安された。昭和3年、大磯研究会が建立した記念碑がある。
大磯を発ち13日には江戸城に入り、その日東京と改められた。ちなみに東幸の費用は77万両(現在の約50億円)に上がったという。
神明在住で大磯八景の石碑を建てられた大磯小学校二代目校長朝倉敬之先生は、小島本陣に明治天皇がご宿泊時、19歳であった。小野懐之(初代大磯小学校校長)、中川良知(初代大磯町長)に推挙され、「天皇行在所」
と墨書し、天皇の御誉めに預かった。その朝倉先生直筆の 「高来神社由来」 の屏風が社宝としてある。
神明神社拝殿
内侍所御羽車奉安之所碑
阿形の狛犬
吽形の狛犬
神明神社拝殿