◎ 保土ヶ谷宿の松並木
我が国に於ける街道並木の歴史は古く、遠く奈良時代まで遡りますが、全国的な規模で取り組まれるようになったのは、江戸時代に入ってからです。慶長9年(1604)、幕府は諸国の街道に並木を植えるよう命じました。以来、夏は木陰を作り、冬は風雪を防ぎ、植樹帯は旅人の休息場所となることから、官民挙げて大切に保護されました。
保土ヶ谷宿の松並木は、この付近から境木まで3㎞あまり続き、広重や北斎などの浮世絵にも度々描かれました。その後、昭和初期までは比較的良好な状態で残されてきましたが、時代と共に減り続け、現在は旧東海道の権太坂付近にわずかな名残を留めるだけになってしまいました。
この度の松並木復元事業では、「上方の松原」 と呼ばれていた今井川に沿った約300mの区間に松などの木々数十本を植えました。
◎ 保土ヶ谷の一里塚
松並木と同時期、街道の距離の目安として、日本橋を起点に一里(約4㎞))ごとに築かれたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土を盛って小山をつくり、その上には遠くからでも目立つよう榎や松などの木々が植えられていました。
保土ヶ谷の一里塚は日本橋から8番目に位置し、この付近(現在の車道上)にありましたが、古くから南側の一基の存在しか伝わっていません。その一里塚も明治時代の始め、宿場制度の廃止に伴って姿を失いました。
この度の一里塚復元事業では、場所の制約から文献にありような 「5間(9m)四方」 に相当する大きさの塚を築くことが出来ませんでしたが、塚の上には昔のように榎を植え、松並木と併せて宿場時代の再現に努めました。
◎ 一里塚跡
街道の距離の目安として、一里ごとに設置されたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土盛した小山を作り、その上に遠くからでも目立つよう榎などの木々が植えられていました。この付近にあった一里塚は、江戸から8番目のものです。
◎ 上方見附跡
保土ヶ谷宿の京都(上方)側の出入口となる上方見附は、保土ヶ谷区郷土史によれば、外川神社の前にあったとされています。見附は、土盛をした土塁の上に材木で矢来を組んだ構造をしており、「土居」
とも呼ばれています。この上方見附から江戸方見附までは、家屋敷が街道に沿って並び、「宿内」 と呼ばれています。
復元された上方見附跡
保土ヶ谷宿の松並木と一里塚説明
一里塚跡・上方見附跡説明