安元元年(1175)、大磯の山下長者に一人の娘が生まれた。長者は40歳を過ぎても子宝に恵まれず、虎池弁財天に願をかけて授かったので、虎と名付けた。この時、弁財天のお告げの印として小さな石が枕元ににあり、長者は邸内にお堂を建て虎御石と名付けて大切にお祀りしていた。
 不思議なことにこの石は虎女の成長とともに大きくなっていった。虎女も舞の名手として広く天下に知られる程に成長し、いつしか曽我兄弟の兄の十郎と恋仲となった。十郎が虎女の家で敵方の刺客に襲われた時、この石のお陰で命が助かったので、一名身代わりの石ともいう。兄弟は富士の裾野で父の仇、工藤祐経を討ち、本懐を遂げて死んだ。虎女は兄弟の最後の地を訪ね、「露とのみ 消えにしあとを 来て見れば 尾花がすえに 秋風ぞ吹く」 と詠んで庵を結んで兄弟の菩提を弔ったのが当山である。

虎御石説明

参道脇にある秋葉社

虎御前祈願の龍神

虎女供養塔

虎池弁才天碑

 石に当山第16世日登上人(天明年間)の筆になる宝塔を配し供養する御神石は、江戸時代には当山の寺領弁天池に中の島の社に虎池弁財天御神石として祀られていた霊石である。

虎池弁財天御神石

当山開基川崎次郎右衛門の墓

大磯宿遊女の墓

虎御前が十郎祐哉との恋の成就を祈願した龍神t伝えられている。元来は山下長者の屋敷内に祀られていたものを尼となった虎御前が此の地に移したと伝えられている。

当山が法雲院日意道聖人によって身延山久遠寺直末の寺として開かれた時、護持の心厚き次郎右衛門は延山の発展を願ってこの土地を寄進し開基となりました。故あって江戸時代に直系の家は滅退しましたが、ここに墓を定めます。

当山の法雲院日道上人が、鎌倉の昔に当山の基を開いた虎御前の菩提を弔うために建立したと伝えられている。

 江戸時代、宿場の遊女は人知れず無縁塚に葬られる者も多かったというが、当山檀徒に縁ある遊女は当山墓地に丁重に埋葬された。

曽我兄弟の兄十郎祐也の想われ人、虎女、すなわち虎御前が兄弟亡き後、19歳で尼となり、兄弟の菩提を弔い虎御石を大切に守り暮らした法虎庵の跡と伝えられている

宝暦6年(1756)の子授け祈願の石仏

虎御石の子授け祈願のために造られたお腹が大きな石仏

法虎庵曽我堂

延台寺本堂

山門前の 「曽我兄弟霊像 虎御石」 と刻まれた石柱