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中山道   (奈良井~木曽福島)

奈良井から木曽福島までは、鳥居峠を越えて薮原宿、宮ノ越宿、福島宿の3宿であり、鳥居峠を越えれば比較的平坦な道と感じられる約23㎞の道程である。

平成26年11月2日(日) ☁  奈良井~薮原  6.4㎞
今日は鳥居峠を越えるだけのつもでいたので、新宿発8時のスーパーあずさ5号で出発し、途中塩尻で乗り換えて奈良井駅には11時11分に到着した。時間的に余裕は有るが、天気予報では午後から雨になるかもとの事だったので、先を急ぐことにした。

奈良井宿 水場(下町) 重要伝統的建造物群保存地区標柱 水場(横水)
木曽の山々はすっかり紅葉が始まっていた。
これから600mほど奈良井宿の家並みを見ながら緩やかに登って行く
程なく街道右手に水場がある。
清らかな水が勢いよく流れ出ており、柄杓の傍には 「飲める水ダヨ。この一杯命を救う」 と書かれた木片が貼ってある。
旅籠風の建物群を進むと右手に大きな 「楢川村奈良伝統的建造物群保存地区」 の標柱が建っている。
この標柱の後ろの松の木の根元に津島神社の社と庚申塔が安置されている。
保存地区標柱の隣に横水の水場がある。
水場の奥には津島神社の水神が置かれている。

大寶寺 本陣跡 神明宮 下問屋(伊勢屋)
街道右手に木で門をかたどった寺標があり、マリヤ地蔵庭園と書かれており、山門をくぐった本堂左に子育て地蔵の異名をとるマリア地蔵がある。
大寶寺は、木曽七福神の寿老尊大霊場になっており、参道には小さな七福神が並んでいる。
街道右手の食事処松波を右に入ったところに本陣跡の標柱が建っているが、建物などは残っていない。 本陣跡の奥に神明宮がある。
鳥居をくぐった先に三十三段の木の階段があり、左わきに蠶玉神社碑、右わきに金毘羅大権現碑がある。
街道右手に現業の旅籠伊勢屋がある。
伊勢屋は、文政元年(1818)から明治まで代々下問屋を務めており、脇本陣も兼ねていた。

上問屋(手塚家) 長泉禅寺 水場(鉤の手) 浄龍寺
伊勢屋から4~5軒先に上問屋資料館がある。
国の重要文化財に指定された手塚家住宅であり、館内には、この家に伝えられた古文書や家具等が残されている。
資料館前には、明治天皇奈良井行在所碑と明治天皇御駐輦所碑が建っている。
上問屋の直ぐ先を右に入って行くと曹洞宗の寺院の長泉禅寺がある。
長泉禅寺は、徳川家光により始められた宇治茶を江戸まで運ぶ 「お茶壺道中」 の宿泊所として毎年使用されていた。山門をくぐると左手に鐘楼があり、本堂脇に六地蔵が安置されている。
街道を進むと右に折れる鉤の手に出る。
鉤の手の曲がり角に鉤の手の水場がある。
鉤の手の右に浄土真宗の寺院の浄龍寺がある。
彫刻家の石井鶴三がこの寺において、藤村木彫像を制作している。
屋根は塩尻でよく見られた雀踊りの棟飾りが付いている。

不動堂 中村邸 高札場 水場(宮の沢)
鉤の手には不動堂が建っており、奈良井宿の住民が神仏行事の際に使用しているようである。 鉤の手を曲がると直ぐ左側に市指定有形文化財になっている中村邸が建っている。
この建物は、櫛問屋中村利兵衛の屋敷で、奈良井宿の典型的な町屋の様式を伝えている。
宿外れに高札場跡があり、モニュメントが建っている。
宿外れまで来ると観光客はすっかり減って歩きやすい。
高札場の隣に宮の沢の水場があり、水の出口が六か所造られている。
水場の裏には、たくさんの庚申塔など石碑が建っている。

鎮神社 楢川歴史民俗資料館 峠口 峠口
高札場の坂の先に鎮神社がある。
赤い鳥居の奥に御神木の杉の木があり、その後ろに赤い神楽殿があり、その奥に拝殿・本殿があり、幾つか境内社もある
元和4年(1618)に疫病流行を鎮めるため、下総国香取神社を勧請したことから鎮神社と呼ばれる。
鎮神社の先に楢川歴史民俗資料館がある。
ここには、木曽谷に暮らした人々の生活を偲ぶ数々の品物や生活道具が展示されている。また、資料館脇には西国観世音、庚申塔、仏像などが安置されている。
鳥居峠口は、道路右側の階段を登っていく。
階段脇には、道標があり 「中山道 右上鳥居峠 左下奈良井宿」 と刻まれている。
階段を登って間もなく民家の横に馬頭観音と頭部が欠けた石像が立っている。いったん車道に出るが、ここにも自然石の道標がある。
車道を50mほど進むと右側斜面に峠への登り口がある。
階段の脇には自然石の道標があり、「中山道 上る鳥居峠 下る奈良井宿」 と刻まれている。
階段の先は石畳になっており、やや濡れており滑り易くなっていた。

落ち葉で埋まる峠道 石像 中の茶屋 石像
落ち葉の峠道は、柔らかで歩きやすいし、落葉してしていることもあり、雲っているにも拘わらず峠道は明るい。
左下に沢が流れており、この先で小さな橋を渡る。
小さな橋を渡った先の斜面に小さな石像が安置されている。 石像の先に小屋があり、それを過ぎると沢に架かる二つの橋を渡り、中の茶屋に出る。
茶屋の脇には説明板があり、「天正10年(1582)2月、木曽義昌が武田勝頼の2千余兵を迎撃し、大勝利を収めた古戦場である。この時、武田方の戦死者5百余名でこの谷が埋もれたといわれ、戦死者を葬った場として、葬沢(ほうむりさわ)と呼ばれる」 とある。
峠道を進むと右手斜面に3基の石像がある。
観音像のようにも見えるが、1基は落ち葉に埋もれている。

鳥居峠一里塚碑 合流地点 峰の茶屋 御岳講明覚霊神碑
落ち葉の峠道を登り、整備された橋を二つ渡ると水場がある。
その先に一里塚碑が建っている。
一里塚の面影は何処にもないが、場所も古老の話や古地図、文献などによって、ほぼこの辺りとして一里塚碑を建てたという。
一里塚跡を過ぎると道は、橋の架かった沢を越えてジグザグに登って行く。
峠の砂利道に合流するところに自然石の道標が建っており、「中山道 上る 鳥居峠 下る 奈良井宿」 と刻まれている。
道標の右の砂利道脇には、2基の馬頭観音が安置されている。
砂利道を進むと小屋があり、傍らに山から湧き出た水が勢いよく流れ出ている。
この小屋は、奈良井宿観光協会が設置したもので、中で休むことも出来るので、我々はここで昼食を採る事にした。
先客が一人おり、外国人の男性で奈良井宿へ向かう途中であった。
峰の茶屋を出る時に雨が降りだして来たため、カッパを着こんで峰の茶屋の脇から左の旧道を登って行く事となった。
登り始めて間もなく林の中に御岳講明覚霊神碑が建っている。
傍らの説明板には、「御岳を信仰する講社が建てた霊神碑と伝えられている。当時の御岳信仰の盛大さが伺えます。御嶽遥拝所までは、この先30m」と記されている。

明治天皇駐蹕所碑 道標 熊除けの鐘 子産の栃
御嶽講明覚霊神碑から少し登ったところが鳥居峠頂上(1,197m)で往時は3軒の茶屋があったという。そこから少し下ったところに明治天皇駐蹕所碑が建っている。
この先で旧道は、舗装されたサテライト道に突き当たるので、右に50mほど進んで左の遊歩道に入って行く。
遊歩道の入口に自然石の道標が建っており、「右旧国道 左明治道路」 と刻まれている
この道は、明治になって開かれた道である。
往時の道は、明治天皇駐蹕碑からサテライト道を横切って御嶽遥拝所に向かっていた。
旧道に入ると直ぐ熊除けの鐘がある。
看板には、「熊も人が怖いのです、鐘で知らせてあげよう。熊は歩道に出るのは極まれですが、念には念を!」 と記されている。
いっぱい鳴らして先に進んだ。
熊除けの鐘から程なく旧道右脇に大きな栃の木がある。
木の脇の説明板には、「昔、この穴の中に捨て子があり、子宝に恵まれない村人が、育てて幸福になったことから、この実を煎じて飲めば、子宝に恵まれると言い伝えられている。」 と記されている。この先の旧道が右に曲がるところに木祖村が建てた鳥居峠のトチノキ群碑がある。

熊除けの鐘 御嶽神社 御嶽山遥拝所 御嶽手洗水鉢
再び熊除けの鐘があったので、ここでもいっぱい鳴らして峠道を下る。
この先に自然石の道標があり、「右中山道 左明治道路」 とあり、近くには不動明王の石像がある。
この右手が御嶽遥拝所である。
旧道から見える鳥居は、崩落の危険があるため規制線が張られていた。
鳥居を迂回して御嶽神社へ入って行くと大きな供養塔が2基あり、その先に御嶽神社の拝殿がある。
境内には、たくさんの霊神碑と石像が安置されている。
御嶽神社の裏には御嶽山(3,067m)眺望所があるが、この日は雨のため雲に隠れて何も見えなかった。 御嶽神社から旧道を下ると丸山公園口に出る。
ここには御嶽手洗水鉢があり、流れ出る水は500m先の峠山からの湧水とのこと。
手水鉢の上の道を行くと木曽義仲が平家追討の旗揚げで戦勝祈願の願書を認めた義仲硯水井戸がある。

丸山公園 道標 供養塔 石畳道
御嶽手洗水鉢の先には丸山公園がある。
公園内には、芭蕉句碑、法眼護物句碑、月雪花句碑、鳥居峠古戦場の碑などがある。
公園から旧道に出ると自然石の道標に 「右大宮新道 左古道」 と刻まれており、その直ぐ先に小さな馬頭観音が安置されている。
ここからは一気に急な下り坂となる。
下り坂には、たくさんの文字が刻まれた供養塔らしき石塔が建っている。
前面には、牛馬於路頭、馬頭観音、川陸寒殺溺死者などの文字が刻まれている。
石塔の後ろには、上部の欠けた馬頭観音らしきものもある。

この先の旧道はつづら折りの下り坂である。
道標の立つ急カーブから先は石畳の道となる。
この道標には、「右旧国道 左薮原宿」 と刻まれている。

原町稲荷社 京方鳥居峠登口 天降社 水場
石畳の坂道を下ると左側斜面に赤く塗られた原町稲荷社がある。
覆屋の中に小さな赤い社が安置されている。
やがて峠道は舗装道路に合流する。
ここは京都方面からの登り口であり、看板には中山道ルート地図が表記され、手前に自然石の道標が建ち 「右旧国道 左中山道」 と刻まれている。
傍らには、杖置き場が設置されている。
更に下って右に消防署のある十字路を横断して下って行くと左に天降社がある。
階段脇の大モミジは直径80cmの巨木で、木祖村天然記念物に指定されている。
境内には二の鳥居があり、小さな社殿がある。社殿脇には、天降大神の石碑が建っている。
天降社の先左側に原町清水と標記された水場がある。
水場の覆屋の脇には水神碑が建っている。

尾州御鷹匠役所跡 飛騨街道追分 薮原宿本陣跡 米屋與左衛門
街道はJR中央本線に突き当たるが、その手前右側に尾州御鷹匠役所跡がある。
当初、尾州御鷹匠役所は妻籠宿に在ったが、享保15年(1730)、ここ薮原宿に移された。
毎年春になると尾張藩から鷹匠と役人が出張してきて、鷹の巣を見つけて鷹の飼育・調教・公儀献上、巣山の管理などを木曽代官山村家の家臣等と行っていたという。
尾州御鷹匠役所跡から少し下ったところに飛騨街道追分道標が建っている。
ここには十王堂(薬師堂)があって、奈川を経て野麦峠・飛騨高山へ通ずる飛騨街道(奈川道)の追分だった。
ここから道路の向かい側の坂を下ってJR中央本線を跨線橋で跨いで反対側に出る。
跨線橋の袂には水神、津島神社の石塔がある
薮原宿本陣跡には標柱が建っているだけで遺構は残っていない。
薮原宿の本陣は、中山道難所の一つだった鳥居峠の麓に位置し、宿泊する者が多い故か規模は木曽の宿駅では大きい方であったという。文久元年(1861)には皇女和宮もこの本陣に宿泊した。
本陣の先には、米屋與左衛門、おぎのや(蕎麦や)の旧家が建っている。

薮原神社 極楽寺 防火高塀跡 水場
街道から左手のJR中央本線のガードをくぐって右手に進むと薮原神社がある。
赤い鳥居を潜った先に二の鳥居があり、その奥の高台に拝殿(本殿)がある。
本殿は木祖村有形文化財に指定され、境内には三峰社、山祈社、出雲社、八品社、誓社、稲荷社など、たくさんの境内社がある。
薮原神社の隣に極楽寺がある。
山門をくぐると左手に鐘楼があり、脇に子安地蔵、石像、石碑が並び、正面に本堂が建っている。
木祖村消防団の隣には、松の木が聳える防火高塀跡が残っている。
元禄8年7月(1695)薮原宿のほとんどが焼失する大火があり、その対策として石垣を築き、その上に高い土塀をたて防火壁としたものである。
石垣の上には明治天皇駐輦所跡碑、津島大神碑があり、石垣脇には水車のモニュメントが造られている。
街道左手には、源流の里と書かれた水場がある。水場の奥には、津島大神、水神天の石碑が建っている。

宮川家資料館 お六櫛問屋 高札場跡 延命地蔵尊
水場の先に 「ぬりもの処」 の看板を掲げている宮川漆器店がある。
天明7年(1787)から医業を務めてきた宮川家は苗字帯刀を許された医家であり、館内には、当時の医療器具や生活用品等が展示されている。
宮川家の先にお六櫛問屋の篠原商店がある。
妻籠の旅籠に 「お六」 という娘がおり、いつも頭痛に悩まされていたが、御嶽大権現のお告げの通り 「ミネバリの木」 で櫛を作って髪を梳いているうちに完治したという。このためミネバリの木で作った櫛が評判となり、享保の頃、鳥居峠付近にもミネバリの木が有ることが分かり薮原でもお六櫛を作るようになったと言われている。
宿外れの街道右側に藪原の高札場跡がある。
赤いポストの脇に標柱が建てられている。
中山道は、ここを右に下って行く枡形道路である。
枡形道路を下った左側の高台に津島大神碑と小林秀之助翁碑が建っている。
街道を進んでいくと右手に墓地があり、入口に延命地蔵尊が安置されている。
隣には六地蔵尊も安置されている。

薮原駅 夕暮れの奈良井宿
延命地蔵尊を過ぎて小川を越えると左手に薮原駅がある。
本日はここで終了し、奈良井宿まで戻って民宿いかりやに泊まることとした。
薮原駅から一駅戻って奈良井宿に着くと16時30分で夕暮れの宿並みも情緒ある風景になっていた。

平成26年11月3日(月) ☀  薮原~木曽福島   15.8㎞
昨夜の宿は奈良井宿の民宿いかりやで、宿にはオーストラリアから来て日本を巡っているという老夫婦、城めぐりの女性、中山道を日に30キロから40キロ歩くという男性が宿泊していた。我々は昨日の続きで、一駅先の薮原駅まで電車で行くため奈良井駅に行くとホームに一人の外国人男性がいた。この男性は昨日、鳥居峠の峰の茶屋で会った方だったので、片言英語で話しかけると直ぐに分かってくれた。本日は、昨夜の雨も上がって期待できそうな空模様である。

民宿いかりや 奈良井宿並 奈良井駅 薮原一里塚碑
朝6時50分に民宿いかりやのご主人が写真を撮ってくれた。
これから7時15分の電車で一駅先の薮原駅まで行くこととなる。
早朝で人気のない街道は歩きやすい。
10分ほど歩くと奈良井駅に到着する。
山が迫っているので朝日が射すのは8時頃だろうか。
駅前も空は明るいが、薄暗い感じである。駅の待合室には生徒たちの書道作品が掲載されている。
薮原駅前を左に進んで小川の脇を通るJR中央本線のガード下をくぐって昨日の続きを始める。
薮原駅を左に見て街道を進んでいくと右手にD51のSLが展示されており、先頭付近に一里塚碑が建っている。
この一里塚は、江戸日本橋から数えて66里目の一里塚である。SLの先には平和之塔、宝泉開拓団記念碑、戦没英霊之碑が建っている。

旅人ご夫婦 旧国道 旧街道口 吉田洞門
一里塚を過ぎると街道は、JR中央本線の下を通る薮原架道橋をくぐり、突当りを右に進んで国道19号線に合流する。
国道19号線の歩道を二人の旅人歩いていた。後に、このご夫婦に抜きつ抜かれつするのだが、途中でお話すると東京から来て二人で旅をしているという。中山道のブログも立ち上げていた。
獅子岩橋の手前で左に入る旧国道がある。
旧国道からは、木曽川下流に幾つか橋が架かっているのが見える。
橋脚がアーチ状になっている旧菅橋は、外見は古いが木曽谷で初めて架けられた鉄筋コンクリート橋で、完成は昭和8(1988) 年。世界恐慌後の不況の真っただ中にありながら、先人たちが郷土愛を込め、当時の最先端技術を駆使して造られたものと伝わる。
旧国道は間もなく国道19号線に合流する。合流して左カーブのところに日野百草丸の看板があり、手前を左に入る旧街道口がある。
暫く林道を進み、途中から右側に旧道らしき道があるので進んでみると国道19号線の崖上に出てしまう。結局、分からなかったので国道19号線に戻って先に進むこととした。
国道19号線を進むと吉田洞門があり、右側の歩道を洞門に沿って進んでいく。
右手には、木曽川が道路脇を流れている

石塔群 吉田一里塚碑 旧国道口 巴淵入口
吉田洞門を過ぎると左手に小屋があり、小屋の裏から下って来る小路がある。これが先程の旧道につながっているらしい。
その先のパークエリアに石塔群が安置されている。
これら石塔群は旧街道沿いなどににあったものを集めたものと思われ、西国巡礼供養塔、百所観世音、庚申塔などである
街道を進むと木曽川に架かる吉田橋があり、これを渡った左手に旧道が残っている。
旧道は間もなく国道19号線に突当り、合流地点の国道19号線沿いに吉田一里塚跡がある。
この一里塚は江戸日本橋から数えて67里目で、碑の後ろには木祖中学校三年生の細川ありささんの手書きの説明文が記載されている。一里塚碑の隣は、天保13年(1842)の馬頭観音である。
一里塚の先は山吹トンネルがあり、旧国道その手前を右に入って木曽川沿いを進む。
旧国道沿いの木々は赤く色づいており、交通安全の地蔵菩薩も建っていた。
国道19号線沿いに宮ノ越宿の看板が建っており、その手前を右に入って行くと300m先に巴淵がある。
入り口に板碑があり、やや進んでJR中央本線ガードの手前に句碑が建っている。

巴淵碑 巴淵 手洗水 有栖川宮御休所跡碑
JR中央線のガードをくぐると突当りが巴淵である。
淵を見下ろすこの場所には、巴淵と刻まれた碑があり、碑には芭蕉の弟子許六の句 「山吹も 巴もいてゝ 田うえ哉」 が刻まれている。
この近くには、沢田正春の「木曽路」の一文の碑や千村春潮作の恭懐之碑 「粟津野に 討たれし公の 靈抱きて 巴の慕情 渕に渦まく」 も建っている。
木曽川が巴状に渦を巻く淵で木曽義仲に尽くしたといわれる 「巴御前」 にちなんで名付けられており、ここに住む龍神が化身して権守中原兼遠の娘として生まれて巴御前になったという伝承もある。
巴淵に架かる巴橋の袂のモミジは、今が見頃であった。
巴淵を巴橋で渡った正面に手洗水がある。
これは木曽義仲が産土南宮神社を拝するときの手洗水と言われている。
街道を進むと民家の軒先には、干し柿と干し大根が下がり、右手の土手には道祖神が安置されている。
その先の民家の前に有栖川宮御休所跡碑が建っており、明治30年(1897)、織仁親王と后薫子が中山道を旅した際に手塚太左衛門宅に小休止した場所とのこと。

石塔群 葵橋 義仲橋 義仲館
街道は右に折れる枡形道路に入り、直ぐ左に折れていくと民家の脇に3基の石塔が安置されている。
街道に面しては背を向けているので回り込んでみると、右側の石塔は享保13年(1728)の三界萬霊有縁無縁塔と判読できる。
街道は木曽川に突き当たるので葵橋を渡って県道を進んでいくこととなる。
葵橋の袂は、葵橋公園になっており、「義仲や葵巴に山吹も恋も憧れ木曽川のはし」 と刻まれた句碑が建っている。
葵橋を渡って県道を右折すると木曽川に架かる義仲橋がある。
義仲橋を渡ると右手に義仲資料館、突当りに徳音寺がある。
入口の正面には、木曽義仲と巴御前の甲冑姿の銅像が立っている。
建物は全体が武士の館を模して造られており、資料館と舞台を備えている。

日義村出身の画家田屋幸男による義仲の一生を描いた大作や古文書の写し、絵図、当時の生活用具など木曽氏にまつわる多くの資料が展示されている。

徳音寺 徳音寺山門 木曽義仲公霊廟 寺橋
徳音寺は木曽義仲が母親の小枝御前を弔うために1168年に建立したお寺で、木曽氏の菩提寺となっている。
「徳音寺の晩鐘」は木曽八景の一つにもなっている。
境内には、木曽義仲・巴御前、樋口次郎兼光、今井四郎兼平など木曽一族の墓がある。
山門は楼門となっており、晩秋の夕暮れに、この寺の暮六つに鳴る鐘の音が 「徳音寺の晩鐘」 と呼ばれ木曽八景の一つになっている。
木曽八景とは、①徳音寺の晩鐘 、②駒 ヶ岳の夕照、③御嶽の暮雪、④桟の朝霞 、⑤寝覚めの夜雨、⑥風越の晴嵐、⑦小野の瀑布、⑧与川の秋月 である。
木曽義仲の発願により天明年間(1780年代)に建立されており、昭和50年笹村草家人の絶作となる義仲公像が奉納されている。
義仲公像の両脇には、木曽一族郎党の位牌が安置されている。
義仲橋の先に寺橋がある。
この橋は、徳音寺の参道に向かっている橋である。

宮ノ越宿本陣跡 脇本陣跡 田中家 御膳水
寺橋から程なく街道左手のバス停に宮ノ越宿本陣跡がある。
本陣跡碑には、「京へ六十八里二十一町 江戸へ六十六里三十五町」 と刻まれている。
隣には明治天皇御小休之跡碑が建っており、奥の建物には、入口に 「本陣」 の木札が下がっている。
本陣跡の直ぐ先の植栽の前に立札があり、脇本陣問屋跡と記されているが、遺構は何も残っていない。 脇本陣跡の少し先右手に出梁造りの旧家が建っている。この住宅は、元旅籠の 「田中家」 である。
この家は、明治16年(1883)の大火で焼失したが、大火時に搬出された建具類をもとに再建されたものである。
街道が緩やかな坂道になる手前左側に明治天皇宮ノ越御膳水がある。
ここにある井戸は、江戸末期に造られたもので昭和初期まで使用されており、明治13年(1880)明治天皇中山道ご巡幸のみぎり旧本陣に御小休の際にこの井戸水でお茶を献上したそうである。

石塔群 宮ノ越一里塚跡 廻国供養塔 林昌寺
御膳水から坂道を登って行く途中に下町会館があり、その庭先に石塔群がある。
廿三夜塔、南無阿弥陀仏碑、西国廻国塔、道祖神などである。
坂を登りきると左にJR中央本線が見え、街道は中央本線の右側の一段低いところを真っ直ぐ進んでいく。
暫く進むと左の草むらに一里塚碑がある。
江戸日本橋から数えて68里目の一里塚である。
一里塚跡から緩やかな坂道を登りつめると第五中山道踏切に出るので、ここを渡って直ぐ右の下り道を進んでいく。
坂に入って直ぐ左の草むらに小さな西国三十三所、秩父三十三所、坂東三十三所と読み取れる供養塔が安置されている。
緩やかに蛇行する街道を進むと林昌寺200mの標識があったので行ってみると、国道19号線を渡ったところに臨済宗の林昌寺がある。
境内には、双体道祖神、六地蔵尊、水子地蔵尊、鳥獣魚霊供養碑があり、墓所には木曽に逃れてきた義仲を、平家の眼を忍び、幼児から朝日将軍に至るまで文武の道を究めさせた養父中原兼遠の墓がある。

石碑石塔群 石仏石碑群 中山道中間地点 旧道入口
林昌寺から街道に戻って進むと無佐澤橋の手前に石碑石塔群がある。
確認できるものの殆どは庚申塔である。
無佐澤橋を渡って直ぐ石仏石碑群がある。
六地蔵尊、大乗妙典供養塔、南無阿弥陀仏碑、四国西国秩父坂東観世音、西国三十三所観世音菩薩、西国観音供養塔などである。
石仏石碑群からは緩やかな登り坂となり、登りつめた辺りの左手に中山道中間地点の石柱が建っている。
石柱には、京へ67里28町、江戸へ67里28町と刻まれている。この傍らには水神碑が建っている。
街道(県道267号線)を暫く進むと右手に旧道入口がある。
旧道の細い道を進んで行くと十字路の角に小さな鳥居の神社があり、社の脇には道祖神が安置されている。十字路を先に進んで道標に従って行くと峠道を思わせるような草道になり、間もなく正沢川に出る。

正沢川の鉄橋 手習天神 出尻の一里塚 おと坂
正沢川にに架かる小さな鉄橋を渡って行く。
この先でカーブミラーの建つ車道に出る。
街道を進んで小さな橋を渡ったところに手習天神がある。 この宮は木曽義仲を養育した中原兼遠が義仲の学問の神として勧進したものである。
鳥居の横には、薬師堂が建ち、その脇には庚申塔、大きな廿三夜塔、南無阿弥陀仏碑が安置されている。階段を上がると正面に拝殿があり、境内にイチイの古木がある。鳥居の先左手にも供養塔がたくさん安置されている。
先に進むとY字路があり、右に下がって行くと国道19号線のガードをくぐって国道19号線に上がることになる。
国道19号線を進むと右手に出尻の一里塚碑がある。江戸日本橋から数えて69里目である。
出尻の一里塚碑を右折すると急な下り坂のおと坂である。
坂の右斜面には沢山の石仏石碑が安置されている。

経塚 芭蕉句碑 旧道入口 関所モニュメント
おと坂の先で国道19号線に上がってデーリーヤマザキの裏の旧道を通り、矢崎橋交差点で再び国道19号線に出る。
先に進むと左手に経塚がある。ここには、初代木曽代官山村良候が全国の霊場を廻って大乗経を納め塚を築いたものである。
碑文は五代山村良忠が初代良候の百年忌に当たって元禄14年(1701)に刻んだものであり、隣の大日如来坐像は元禄15年に造立したものである。
経塚の直ぐ先のガードフェンスの中に石碑があり、フェンスの切れ目から中に入ると芭蕉句碑であった。 国道19号線の右手にある生蕎麦くるまやの先で新町の旧道に入る。
間もなく国道361号線のガード下をくぐって木曽川に突き当たる。
木曽川を見ながら昼食のおにぎりを頬張っていると朝から見かけたご夫婦がやって来た。ご夫婦は今日東京に帰るので先を急ぐと言って通り過ぎって行った。
木曽川に沿って進むと坂道となり国道19号線に合流し、その先の関町交差点で右に行くと大きな関所のモニュメントが建っている。
モニュメントの手前のトイレも屋敷風に造られている。

木曽福島関所跡 関所資料館 高瀬家 西門出口
モニュメントの先の左の坂道を上がっていくと木曽福島関所跡がある。
敷地には東門跡、番所跡、築地塀跡、西門跡、水場跡などがある。
木曽福島関所は、中山道のほぼ中間に位置し、創設以来約270年間、中山道の要衝として 「入鉄砲」 「出女」 を取り締まった重要な関所である。
西門の先には関所資料館があり、敷地内には御番所が復元されている
関所通行に関する資料や関所に置かれていた武具などが展示されている。
関所資料館の先は、文豪島崎藤村の姉「園」の嫁ぎ先で、作品「家」のモデルとなっている。
大火により土蔵、庭園の一部を残し焼失したものの旧家の風情を残している。
島崎藤村に関する資料と関所番や生活に関する道具類が展示されている。
西門から街道へ降りる坂道の途中には、幾つかの社に安置された石仏がある。

関所橋 権現水 興禅寺 旧帝室林野局木曽支局庁舎
木曽川に架かる関所橋を渡って川向こうの興禅寺や長福寺、山村代官屋敷跡を巡ってみることとした。
関所橋の欄干は、その昔福島際の神輿がこの付近の川を渡ったことから擬宝珠の形をしており、レリーフが描かれている。
関所橋を渡った道路の突当りに権現水がある。
ここは戦国時代に福島城があった城山の権現滝付近から水を引いてきた水場である。
興禅寺は、木曽義仲公、木曽の領主木曽家代々、木曽代官山村家代々の菩提所で、木曽三大寺の一つである。
境内には、勅使門、御影観音堂、枯山水の看雲庭、万松庭などがある。
興禅寺の隣に木曽町有形文化財に指定されている旧帝室林野局木曽町支局庁舎が建っている。

長福寺 山村代官屋敷東門跡 山村代官屋敷 福島宿本陣跡
臨済宗の寺院であり大宝2年(702)岐岨山道が開けた頃、薬師寺平付近に創立した古寺と伝えられている。
境内には、木曽路の庚申講の中心としての本尊が復元安置されている。また鐘楼からは町並みが一望できる。
この石垣の中央にある石面には、延享2年(1745)に尾張藩主徳川宗勝が江戸から尾張に帰る途中、重臣であり学者であった横井也有の紀行文 「岐岨路紀行」 の一節が刻まれている。 城陽亭と言われるこの建物は、享保8年(1723)2月の火災で全焼し、その後の建物で破損補修を加えているが形は当時のままである。
門をくぐると左側に稲荷社があり、8代代官山村良啓のときに建立され、それ以降、山村家の護り神として代々丁重に奉られてきたもである
関所橋で街道に戻ると木曽町木曽福島支所の前に福島宿本陣跡の石柱が建っている。
石柱には、「京へ六十七里 江戸へ六十九里」 と刻まれている。
この直ぐ先左手に明治25年(1892)創業の木曽の銘酒 「七笑」 の醸造元店舗がある。
街道は、その先の真岡薬局を左折していく。

喜又橋 高札場 上の段 水場
真岡薬局を左折して直ぐ右手に 「喜又橋」 がある。
この橋は、清水の湧いた場所より小川が流れ出て、その小川に木製の橋が架かっていたものを復元したものである。
奥の建物は、山村代官の代々家老であった千村家の 「茶屋」、「蔵」、「薮裏清水」 などである。橋の向かい側は、七笑酒造の酒蔵である。
街道は、喜又橋の先の突当りで右の坂道を上って行き、坂の途中に高札場がある。
この高札場は、天保9年(1838)に8枚の札が掲げられている様子を再現している。
高札場の横は、休憩所になっており、東屋の前に水場がある。
高札場を登りつめると上の段の宿並みが続いている。
右手に 「まつり会館」、左手に和食の 「肥田亭」が建っている。
ここは明後日の夕食に来ることとなる店である。
「肥田亭」 の先の 「松島」 の前には水場があり、二つの口からは水が勢いよく流れ出ていた。
この水場の左の路地の奥に山門らしきものが見える。

大通寺 古井戸 中八澤橋 くるまや本店
水場の左の路地を進んで行くと突当りに大通寺の鐘楼門が建っている。
大通寺は、関ヶ原の合戦のあと、柱山和尚を開山とし、木曽代官の山村良勝によって建立された。
境内には、武田信玄公息女真理姫供養塔、廿三夜塔、西国三十三所観世音菩薩、馬頭観音などの石碑石塔のほか稲荷大明神の境内社がある。
大通寺を出ると左手に小さな水場があり、緩やかな下り坂はその先で左への枡形となる。
枡形の突当りに古井戸がある。
この井戸は江戸時代中頃に造られたものであり、昭和の中頃まで町民の飲料水として使用されていた。
井戸の左手前には 「木地の館」 が、その先には 「漆の館」 があり江戸時代から続いた文化伝統を紹介している。
坂道を下ったところで八沢川に架かる八澤橋を渡って県道269号線に入る。
県道269号線に入って間もなく、行人橋への道の入り口に享保元年(1716)創業の生蕎麦 「くるまや本店」 がある。
その向かいには、万延元年(1860)創業の木曽漆器 「よし彦」 がある。

西方寺 行人橋 大悲観音 むらちや
行人橋の手前に浄土真宗の寺院の西方寺がある。
参道を上がると左手に本堂があり、境内には聖徳太子碑がある。
この橋は、戦国時代からあったと言われ、当時これより下流に橋がなく御嶽街道を往来する人々の出発点として 「行人橋」 と呼ばれてきた。
川沿いの家々は川岸ギリギリのところに建っている。
行人橋を渡った左側の斜面に大悲観音と書かれた祠があり、中にたくさんの観音像が安置されている。
祠の上に石碑が見えるが、これは 「荒城の月」 の歌碑である。
県道269号線に戻ると、本日の宿泊先 「むらちや」 である。
入り口は人がやっと通れるほど狭いが中に入ると延々と廊下が続いており、我々は一番奥の一室となった。

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