木曽義仲17世の孫義高は、父を左京大夫義在、母は小笠原大膳大夫長時の女、兄義康は福島の城主であった。
 義高長じて奈良井に砦(この跡奈良井の西方にあり、今も僅かに空濠の跡を留め、大部分は耕地に変わっている。耕地の際古武器の一片など出土したことがある。)を構え、奈良井治郎小輔と号した。
 弘治3年(1557)武田信玄自ら出馬し、将となりここに来政交戦した。
 義高遂に敗れてその従者もほとんど運命を共にした。
 小笠原長時の子季政松本にあってこれを聞き、一子義尚を助け保護した。その後、奈良井氏は世々小笠原氏の臣下となった。
 この義高の墓大宝寺境内にあり、法名は広伝寺殿闇翁宗開大禅寺定門

大宝寺本堂

地蔵堂

大宝寺寺標を兼ねた冠木門

七福神

地蔵菩薩、馬頭観音、廻国供養塔など

奈良井治郎小輔義高の墓説明