当寺は、関ヶ原の合戦(1600)のあと、柱山(ちゅうざん)和尚を開山とし、木曽代官の山村良勝(たかかつ)によって建立されました。
 この鐘楼門は、安永7年(1778)9月、施主向井休治、大工棟梁は原源右衛門によって建てられたもので、当町に現存する木造建築物としては最も古いものの一つです。
 梵鐘は、寛文4年(1664)北傳和尚の時、山村新左衛門忠清、森田佐右衛門眞道(さだみち)によって寄進されたものでしたが、第二次世界大戦中に供出されたため、昭和53年(1978)に再鋳されたものです。
 山門に掲げられている扁額は、江戸中期の日本を代表する書家で、特に篆書(てんしょ)、篆刻(てんこく)を得意とする三井親和の作です。
 (木曽町)

順拝西国三十三所観世音菩薩

馬頭観音

南無阿弥陀仏名号碑、地蔵菩薩2体

廿三夜塔

 天文24年(1555)木曽へ攻入った信玄が領主木曽義康と和睦した折に、その嫡子義昌のもとへ甲府から嫁いできたのが武田信玄の三女である真理姫(当時6歳ほど)です。
 天正10年(1582)織田信長方についた義昌と、真理姫の兄勝頼が戦を交え、敗れた勝頼は自刃し、武田家は滅びてしまいました。
 そして天正18年(1590)には徳川家康によって木曽義昌は網戸(あじと・千葉県)へ国替えされ5年後に病死。後を継いだ義利の乱行によって木曽家は取り潰されました。真理姫は、末子の義通と共に木曽へ戻り三岳村で隠れて暮らしましたが、正保4年(1647)98歳の長寿を全うし、波乱の生涯を閉じました。
 墓は三岳村の野口という地籍と、千葉県旭市網戸の東漸寺(とうぜんじ・義昌公菩提所)の双方にあり、東漸寺の位牌の戒名は 「真龍院殿仁栄真大姉」 です。
 大通寺は慶長4年(1601)木曽家の屋敷跡に尾張藩木曽代官山村良勝(第2代)が創設した寺ですが、その良勝が父良候と共に義昌の重臣であったことと良勝の祖母が義昌の叔母であったという説もあり、これらの縁によってこの供養塔が建てられたものと考えられます。

武田信玄の娘 真理姫供養塔

真理姫供養塔説明

境内社の稲荷大明神

六地蔵尊

大通寺本堂

鐘楼門の山門

大通寺山門説明