吉田の一里塚は、京都と江戸を結ぶ中山道(およそ139里)のほぼ真ん中の位置にあった。
 「中山道分間延絵図」 によれば、「下吉田」 にあり、道の両側に塚が築かれていた。
 一里塚は京都から江戸まで、およそ一里ごとに街道の両側に土を盛り上げて塚を築き、榎や松の木を植えて旅人の目安としたものであるというが、吉田の一里塚はその面影をとどめていない。場所も古老の話や古地図、文献などによって 「ほぼこの辺り」 としたものである。
 吉田の地名 「よい田が拓けている」 ということからつけられた地名であるといわれているが、中山道はここから木曽川沿いの難所を避けて、東側の山を登って薮原宿に向っていた。
 (NPO法人木曽ユネスコ協会・説明文木祖中学校3年細川ありさ)

手書きの説明文

吉田の一里塚跡碑、馬頭観音<天保13年(1842)>

木曽川に架かる吉田橋