江戸期になると、幕府中心の幕藩体制が確立した。その情報伝達方法として 「高札場」 が都市・宿場・在郷等に設けられた。
 初期には法度や掟書など老中交替の都度高札として出された。正徳年間(1711-15)以降変更のないのはそのまま 「定札」 として幕末まで維持された。他に 「覚」 等の高札もあって時期により掲示枚数が違う。
 薮原の高札場(御判形とも呼んでいた)は高さ2間3尺、幅2間4尺の建造物で、この場所にあった。
 左に下る坂道(旧中山道)一帯を出口といって京方からの宿場入口のあたり、ここが鍵の手(枡形)のような道になっているため、人々が集まり目につき易い所だった。掲示の高札は宿場町らしく、定三札(人倫・徒党・切支丹)と駄賃札等が主だったと思われる。
 木祖村郷土館には、当宿場に掲示されていた幕末期の定三札の一つがある。

小林秀之助翁碑

津島大神

薮原宿高札場跡説明