福島関所の創建された年代は明らかではないが、中山道の開かれた慶長7年(1602)をあまりくだらない頃のことと考えられ、中山道の重要な守りとして碓氷、箱根、新居とともに当時天下の4大関所と称していたものである。
 当初から木曽地方の代官山村氏が代々その守備に任じ、明治2年(1869)6月までその機能を果たしてきた。
 この関所は、各藩境等に見られる番所の類と機能を異にし、特に 「女改め」 と 「鉄砲改め」 とに重点が置かれていた。
 中山道が東海道とともに当時江戸と京都とを結ぶ幹線の道路とされていたことや、「女改め」 の手形の本紙はこの関所に留め、下り(江戸へ向かうもの)のについては、ここから碓氷関所へ 「書替手形」 を発行する、とされていたことなどからみて、この関所が、徳川幕府による交通政策上、いかに重要視されていたかが伺われる。廃関後、関所の諸施設は、全部取り壊されてしまったので、当時の面影はほとんど留めていなかったが、昭和50年夏に行なわれた発掘調査の結果、寛文年間(1661-70)頃のものと推定される。
 関所古地図にみられる
 一、御関所敷地 25間3尺
 一、敷地是より大道北の柵迄16間
 一、下番所間口3間、奥行6間
 一、東門外に駒寄 15間1尺5寸
 一、捨門(西門)外に柵7間5尺その先端駒寄4間4尺
 一、南側根の井迄東門のつづき柵を39間4尺
の規模にわたる関所遺構の全容を確認することができた。
 これを史跡公園として整備保存する計画がたてられ、史跡公園に隣接して、昭和52年4月27日、当時の御番所建物を再現、関所資料館が完成し、昭和54年3月13日文部省より国史跡として指定された。
 平成2年史跡内の民地の公有化に伴い、第二次発掘調査を実施し、史跡保存、環境整備の一環として平成4年度に東西両門と木柵および武家屋敷跡の公園化復元修景整備をしたものである。
 (木曽福島教育委員会)

国史跡福島関所跡説明

関所井戸(水場)

西門と木柵

木曽福島関所跡碑

築地塀跡

福島関所跡復元図

番所跡