山村氏は鎌倉幕府の大学頭大江匡衡(ただひら)一族の流れを祖とし、木曽義元の食客となったことにはじまり、木曽氏の重臣として活躍しました。後に、関ヶ原に向かう徳川秀忠の先陣を承って活躍し、勝利を得たことから木曽谷の徳川直轄支配を任される木曽代官となり、以後、明治2年に至る274年間木曽谷を支配し、関所を守っていました。
 木曽の山林と4大関所の一つ福島関所の関守を兼ねていたその権力は強大で、その屋敷は豪壮を極めたものでした。文政11年(1828)の絵図によると福島小学校を含む敷地に庭園が20あり、そのうち築山泉水の庭が5つ、その一つが現存する下屋敷と庭です。(木曽町)

 享保8年(1723)2月4日火災により全焼、その後の建物で破損補修を加えているが、形は当時のままである。本亭は代官屋敷の一部で、木曽代官12代良棋公の御下屋敷の一部でありもあり、代官屋敷唯一の遺構である。
 良棋公は号を城陽と称したので、この亭を城陽亭と呼んでいる。
 亭内には書斎の間 「肴雨山房」 を中心に数室からなり、歴代代官の書跡や愛用品などが展示されている。
 庭園は、駒ヶ岳を周囲の山と生とりした借景をもち、室内から眺める姿は静寂そのもので市中にあるの感がない。
 また代官屋敷が取り壊しの際、「ミイラ」 となって出て来た 「お末社さま」 と呼んで崇敬する学術的にも貴重な御神体を奉祀し拝観することができる。

山村代官屋敷入口

 この祠は、8代代官山村良啓(たかひら)公のときに建立されたもので、それ以降山村家の守り神として、代々丁重に奉られてきました。
 ご神体について9代良由(たかよし)公は、「その昔、日本国に降り給い帝都まで駆け巡り宮々を輝くばかり安泰に案じ給うた。神の化身である白狐様が、神の代わりに人々の訴訟を聞き判断を仰げば、たちまち英断が下され人々はその判断に従った。」 と記しています。
 今でも火難、病難除け、商売繁盛の霊験あらたかな神として庶民に崇敬されており、また酒を好む神としても言伝えられています。
 館内には、安永5年(1776)ここに稲荷を奉納するという勧請書が現存します。

稲荷社

稲荷社説明

城陽亭の庭園

城陽亭説明

山村代官屋敷説明

山村代官屋敷