当寺の草創は遠く大宝2年(702)岐岨山道が開けた頃、当郷薬師平付近に創立された古寺と伝えられ、後小丸山城下に移り富田山長福寺と称していた。
木曽家治政の中、永享2年(1430)13代源太郎豊方公先祖追善のため、この地に再興。竹陰禅師を開山となし、多くの寺領山林を寄進して木曽三刹の一つとされる。次いで、16代義元公も龍源寺を再興されたが、後長福寺に合併。爾来、龍源山長福寺と改称す。
永正の頃(1504-21)義元公の伯父信叔紹允禅師、京都妙心寺獨秀乾方禅師の法を嗣ぎ、当寺に住して妙心寺派を興す。
これより木曽路、諏訪、松本方面に妙心寺派の禅風大いに振るう。故に信叔系の法源なり。
戦国の世の天文元年(1573)甲斐の武田信玄公病没す。時に19代義昌公は義父追善の為、当寺に墓を建て廟所となす。また木曽代官山村公も先祖以来の菩提所なり。
文禄3年(1594)、嘉永3年(1851)、昭和2年(1925)と火災に遭い、特に昭和2年には木曽義仲公出陣の太鼓、後西院帝宸輪鉄眼版一切経等々幾多の重宝を悉く焼失す。
長福寺由緒
長福寺全景
梵鐘
鐘楼
鐘楼上から見た本堂
長福寺本堂 (左に鐘楼)
雲龍殿
山門
御堂(庚申と石仏)
青面金剛と三猿 (木曽路における庚申講の中心)
当寺には古来より木曽路における庚申講の中心としての本尊があり、多くの信仰を集めていましたが、昭和2年の大火で失い、一体の猿像が残っておりました。
昭和55年庚申の年に当たり三猿を復元、また篤志家の寄進により本尊青面金剛の神像が安置できました。
この神像を信仰し祈願を積めば災難消除並びに諸病平癒に霊験あらたかとされています。
法羅陀山地蔵大菩薩(貞治の石仏)
信州高遠の石仏氏守谷貞治が木曽代官山村公の依頼により文政5年(1822)に造立したもの