元禄8年(1695)7月薮原宿のほとんど全部が焼失する大火があった。その後、防火対策として宿再建の際、各戸一間につき一寸の割合で提供し合って、上横水と下横水(現在の二又)の二ヶ所に四ツ辻の広小路を作った。
 文化年間(1804-17)にはさらに中心街の火災に配慮して、上横水の広小路には北側に土を盛り石垣を築き、その上に高い土塀をつくって防火壁とした。当時、これを 「高塀」 と呼んでいた。
 宮田敏の 「岨俗一隅」 にはその様子が伺える絵図が載っているが、現在、石垣の一部のみが残されている。
 防火設備が十分でないどの宿場も火災には神経を使っており、用水路の工夫や建物に卯建(うだつ)を付けるとか火除け広場を確保するなどしている。
 この薮原宿のような防火高土塀によるのは少ない例である。

水樋に木の人形と小さな水車が連動している

防火高塀跡説明

左 火廼要慎      右 津島大神

明治天皇駐輦所碑

水樋と水車