江戸幕府は諸大名を江戸に参勤させた。此の制度の確立の為 「中山道」 が碓氷峠 「熊野神社」 前を通り、此の赤門屋敷跡には 「加賀藩前田家」 の御守殿門を倣って造られた朱塗りの門があった。
 諸大名が参勤交代で浅間根腰の三宿 「追分・沓掛・軽井沢」 を経て碓氷峠に、また上州側坂本宿より碓氷峠に到着すると、熊野神社に道中安全祈願詣でを済ませて、此の赤門屋敷で暫しのほど休憩し、無事碓氷峠迄来た事を知らせる早飛脚を国許また江戸屋敷へと走らせた。
 江戸時代の終わり文久元年(1861)仁孝天皇内親王和宮様御降嫁の節も此の赤門屋敷に御休憩された。
 明治11年(1878)明治天皇が北陸東山道御巡幸のみぎり、峠越えされた行列を最後に、旅人は信越線または国道18号線へと移った。上州坂本より軽井沢までの峠越えの道は廃道となり、熊野神社の社家町 「峠部落」 も大きく変わり赤門屋敷も朽ち果て屋敷跡を残すのみとなった。
 此の屋敷は熊野神社代々の社家 「峠開発の祖」 曽根氏の屋敷であり、心ある人々からは由緒ある赤門 「御守殿門」 及び格調高い 「上屋敷」 の滅失が惜しまれている。

赤門の由来
 現在、東京本郷東大の赤門が現存しており、此の門は文政10年(1827)今から約170年前、加賀藩前田斎泰(なりやす)に嫁いだ11代将軍徳川家斉の息女溶姫の為に建てられた朱塗りの御守殿門であり、重要文化財に指定されている。
 平成7年5月15日 熊野神社

「四四八四四 七二八億十百 三九二二三 四九十 四万万四 二三 四万六一十」 と刻まれている。  

赤門稲荷社

みくにふみの碑

力餅 見晴亭

<赤門屋敷跡>

赤門屋敷跡説明

みくにふみの碑説明

四四八四四 七二八億十百 三九二二三 四九十 四万万四 二三 四万六一十 (よしやよし なにはおくとも みくにふみ よくぞ よままし ふみ よまむひと)
 よしやよし 何は置くとも み国書(ふみ) よくぞ読ままし 書(ふみ)読まむ人 の意である。
 これは峠の社家に伝えられていたものを滅失を恐れて昭和30年熊野神社に建てたものである。  

みくにふみの碑