碓氷関所時代、現在地霧積橋よりやや上流に川久保橋が架けられていた。
 この橋は、正しくは碓氷御関所橋と呼んで中山道を結んでいたが、橋桁の低い土橋であったため、増水期になると度々流失した。
 関所設立当初は軍事目的を優先したからである。橋が流失すると川止めとなり、旅人や書状などの連絡は中断された。
 このため、関所には、大綱一筋、麻綱一筋が常備されていて、宿継ぎ御用綱として使われ、書状箱を対岸に渡すことに使われた。
 細い麻綱を投げ渡して大綱を張り、大綱に竹輪を通して麻綱を繰り、丁度ケーブルカーのようにして書状箱を渡したという。川止めとなっても増水の危険を冒して渡河する人もいた。中でも参勤交代の大名行列は日限も予定されているので、渡河を強行したという。
 大名の渡河に際しては、番頭も川原に罷り出て見届けた。

川久保橋説明

霧積橋