眞光寺の鐘は、板鼻の称名寺の鐘、下秋間の桂昌寺の鐘とともに第二次世界大戦において安中市で供出を免れた三鐘の一つである。
先に仁井輿惣右衛門が眞光寺に寄付していた鐘を、安中藩第12代藩主板倉勝時(在位安永9年(1780)~寛政4年(1792))の代に時の鐘として許可されたので、鋳直して鐘楼を建て直し、天明元年(1781)7月2日に撞初めを行った。
施主は仁井輿惣右衛門、磯貝久次郎、半田半左衛門で、世話人は磯貝猪七郎、田中助右衛門、須藤小八郎、仁井小四郎、横山長次郎、磯貝全左衛門、中嶋五郎八、鑄工は信州小県郡上田の小嶋文治郎紀弘行であった。
天保3年(1832)に本堂、鐘楼が焼失したあとも、時の鐘なので男2人を雇って昼夜怠らず時を知らせ続けた。
こうした由緒をもって供出を免れることができた。なお、この鐘が吊るされている鐘楼は、現在は本堂の左側にあるが、元々は中山道からの入口のすぐ東側にあった。
(安中市教育委員会)
書家 仁井楽圃の碑
眞光寺の鐘説明
眞光寺旧鐘楼の跡の標柱
享保7年(1722)の南無阿弥陀仏名号碑
石祠
眞光寺の鐘
眞光寺本堂と鐘楼